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​龍馬の影を偲んで(令和七年一月発行「龍馬タイムズ」寄稿)
井伊達夫

〈2〉

 

  私は今、京都に住んでいる。既に四十年ほども経ってしまった。”人生は白駒の隙(げき)を過ぎるが如し”という諺があるが、身に染みて然りと頷かされる。祇園という華やかな地域に住んでいるので四条河原町の方へは三日に一度位は出ることがある。
四条から三条の方へ木屋町の道を上ってゆくと、六角通りの川畔に『彦根藩京都藩邸趾』の石標が立てられてある。この六角通に面して旧幕時代には朱塗の門を構えた井伊家京都藩邸が設けられていた。坂本龍馬が暗殺された近江屋の趾は藩邸趾から西方へ河原町に出ればすぐそこにある。

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井伊家の京都藩邸は藩における京都外交のための主力基地であった。皇室や公家方への交渉は通常この藩邸を通じて行われる。藩邸駐在の士は京都留守居役としての役目が重大であったから、藩中の歴々の士から外交能力のある人物が選抜されその任についた。
京の藩邸は幕末大老井伊直弼に信任され、京都探索に与って神出鬼没まさに鬼神のように勤王派浪士に畏怖された長野主膳が情報基地としたところである。彦根藩幕末資料文書中にこの京都留守居役として活躍した人物に後閑新兵衛(義祇-よしずみ)というのがいる。確実な文書記録がないが、この新兵衛が「坂本龍馬」という土佐人の行動に不審の目をむけていたという。ただし、これは今に至る風聞であり、秘話である。それ以上のことは何も伝わっていない。

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前述した通り、「彦根藩邸」と龍馬潜伏の「近江屋」、そして土佐藩邸(木屋町蛸薬師詰)とはいずれも指呼の間にある。そうすると、そこで私は想像するのである。京のまんなか、この河原町木屋町の周辺で坂本龍馬と後閑新兵衛は何しらずして、袖擦り合わせる瞬間的行交いをしていたのではないか。否そうであると信じたい。新兵衛は無心で何も知らず龍馬の影を踏んでいた可能性が高い。
そのような歴史の夢想は楽しい。私は祇園から木屋町の方へ出ると、そしてその場近くを通るといつもこんな夢のようなことをふっと脳裡に泛かべながら龍馬の影を偲ぶ。そして昼夜を舎(お)かぬ高瀬川の流れを眺めるのである。
(ちなみに私が設けている井伊美術館の表門は京都彦根藩邸の門を復元したものである。但白木造で朱塗りではない)。 

2025.02.04 

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