井 伊 美 術 館
当館は日本唯一の甲冑武具・史料考証専門の美術館です。
平成29年度大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」の主人公直虎とされた人物、徳川四天王の筆頭井伊直政の直系後裔が運営しています。歴史と武具の本格派が集う美術館です。
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※当館展示の刀剣類等は銃刀法に遵法し、全て正真の刀剣登録証が添付されている事を確認済みです。
ご注意
本コーナーでは一応次郎法師が井伊直虎であったとして、次郎法師の遺品とされるものは直虎の名をもって発表しております。しかし、より正確を期するならば次郎法師が即井伊直虎であったという断定は控えた方が穏当なのです。実は史料が少ないため、井伊次郎と次郎法師とが混同され、伝説的物語化が進んでいるという気配です。実際には次郎法師と井伊直虎は別人であったという可能性が排除できない状況です。なお現在当方において井伊家古資料類の調査が進行中です。御期待ください。
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井伊直虎が女性で、かつ次郎法師の後身であったという、恰も古来からの真実のごとき、近代の説話は、当館史料の発見によって否定されました。
詳しくは『ほんものの井伊直虎』(H28/12)
井伊直虎 特別コーナー
平成29年度大河ドラマ 「おんな城主 直虎」
遠州錯乱と呼ばれる混乱の時期、井伊家では度重なる合戦や謀反の疑いなどにより多くの人々を失いました。直政の父・直親も若くして殺され、後継ぎを失った井伊家は存亡の危機に立たされます。この危急に当って井伊家を護持したのが歴代ただ一人の女当主であったとされています。
史実は別として直虎は向背定まらぬ乱世の只中を泳ぎ切り、断絶に瀕した井伊家の家名と祭祀を直政へと引き継いだ智謀の女武将ということになるのでしょう。表立って歴代中には数えられませんが、この直虎が平成29年(2017年)の大河ドラマの主人公に決定しました。井伊家というと「直弼公」ばかりで肝腎の大先祖で徳川四天王の筆頭である井伊直政(『井伊軍志』参照)や直孝(伝記執筆中)が閑却されていることを常に遺憾に思っていました。今回戦国物語中の井伊の女統領・直虎にスポットライトがあてられると、間接的に直政も注目されることになります。井伊家は「直弼公」オンリーではありません(直弼の真姿は新史料をまじえ現在執筆中-28年夏刊行予定)。この際改めて井伊家の歴史を温故し知新したいものです。
当館は極めて少ない次郎法師(井伊直虎とされる)の遺品等直接資料を寄託保存しています。このページでは貴重な関係資料を御紹介します。
本コーナーでは井伊家創業の人々、特に直政、直継、直孝、そして次郎法師(戦国の女領主とされる直虎)に係る、遺物資料を掲出しています。
また当館の研究趣旨に賛同して各方面から関係資料が寄せられています。その内の主なものを順次御紹介致します。
昭和40年はじめ頃の共保出生伝説の井戸(館長撮影)
井伊次郎法師(直虎とされる)
紺糸威本小札胴丸・広袖附
-次郎法師(直虎とされる)護持・井伊家再興の胴丸-
井伊家に係る甲冑類の中では最古の鎧胴で、正式には胴丸(古称腹巻)と称します。井伊氏は直政の前代一時滅亡に瀕し、伝来古器の殆どを失うに至りますが、唯一人の女性当主で直政の養母とされる次郎法師が辛うじて井伊の家名を存続しました。本品はその次郎法師(直虎とされる)が護持し所用したと伝える前代(直平以来)の遺品で、井伊家ゆかりとして希有な武具の遺品です。江戸藩政期は松下家に伝来しました。一部江戸期に修補されていますが室町の古態をよく残した名品です。
次郎法師(直虎とされる)愛用の鏡 紐座は菊亀甲亀紐、松に二羽の鶴を配した吉祥文様の鏡です。亀と双鶴が接嘴した図柄は室町時代の特色とされています。 (寄託調査品) | 避災回禄観音(龍泰寺旧尊) -井伊次郎法師(直虎とされる)護持観音- 永禄三年井伊谷龍潭寺の前身である龍泰寺炎上の際危うく難を逃れ救出されたといわれる観世音菩薩像です。その後次郎法師(直虎とされる)の信仰護持仏となりました。その旨の資料(永禄11年秋)がのこされています。次郎法師(直虎とされる)歿後井伊家にゆかりの深い奥山家に伝えられました。傷んでいますが慈愛の表情ゆたかな平安時代と伝えられる古い観音様です。 (全長約105cm) | 次郎法師(直虎とされる)直筆四神旗 中国古代の思想に端を発する四神は、東西南北四方の守護神として広く用いられ、朝廷での祭儀においても四神旗が掲げられた例がみられます。次郎法師(直虎とされる)は井伊家守護のため、本営の帷幄中にこの四神旗を備え置きました。北方の玄武に代わり、勾陳が配されています。(寄託調査品) 平成26年5月にNHK歴史秘話ヒストリア「それでも、私は前を向く ~おんな城主・井伊直虎 愛と悲劇のヒロイン~」にて紹介されました。 |
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次郎法師(直虎とされる)所用脇差 直江志津の兼友の作。次郎法師(直虎とされる)常用の脇差で、江戸時代には与板藩主の井伊直暉の愛刀でした。拵は直暉時代のもので、いかにも品格にあふれた優作です。 (寄託調査品) | 井伊共保神像画井伊共保神像画 共保を神格化して甲冑を着せていますが、多分に想像的で、実証性はありません。井伊家の士たちが「井伊八幡」として大切に拝礼したもののひとつです。 | 井伊城・井伊大明神遠江介共保公神像 像背に明応二年八月、井伊直氏寄進の銘あり。(平安後期作と伝承される井伊家最古の神像) |
短刀 来国俊(鎌倉時代) 元来井伊家伝来品。海外流出、ボストン美術館蔵となり、再び里帰りした。国宝指定の短刀と同型。 (調査寄託品) |
井伊谷城内図直満の塚古図 (昔は墓石がなかったことに注目) | 『井伊軍記秘事』(井伊家本) | 『井伊家伝記』(井伊家本)本書は龍潭寺の古伝に井伊谷地方に伝わる口碑伝承を変えて江戸中期(龍潭寺祖山論述)に綴られた井伊家のものがたりです。いわゆる稗史伝説の類です。正確な記録や一次的史料に乏しい井伊家の中世史に於ては伝説雑話も参考としては貴重です。ただ井伊家全盛の江戸期に井伊家の為をもって作られたもので、井伊家は全て正義・善ということになっているので、採用の伝話も史料そのものとの解釈・評価は難しいところがあります。直虎の小説や物語の根幹もおおよそ本書が基本になっていると想像されます。 |
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井伊年譜江戸中期藩臣功刀千右衛門君章があらわした井伊家史。本書は公章自訂本として三浦内膳家に奉呈されたもので全五冊本。 | 井家祖覧(せいけそらん) | 三浦家系譜井伊家重臣三浦内膳家(与右衛門・和泉)の系譜。初代与右衛門元貞は今川譜代の士で妻は直政の恩人新野左馬助の長女でした。 |
国語碑銘誌(木俣守長筆)木俣家初政期守勝、守安、守明及びその妻室、関係者の事蹟が明確に記されている彦根藩創成期の貴重史料。数百年にわたって放置されてしまうと江戸期の記録もこのような状況になるという典型。水洩れ水害、虫害、思いのまま、つわものどもが夢のあと―。 | 新野左馬助親規由緒 | 家康拝領葵紋軍旗家康が遠州へ討入り井伊谷を制圧したとき直虎旗下所属のしるしとして与えたと伝える軍旗です。(内藤政優家旧蔵) (長さ約3メートル) |
八幡大菩薩神号軍旗八幡大菩薩の神号を大書した古軍旗で、乳を設けない古式の流れ旗です。江戸期、井伊家家老新野家に伝来しました。新野家は断絶に瀕した井伊家を擁護し、直政を命がけで守った左馬助親規の子孫として名跡をついだ重臣でした。これがのち井伊家八幡神旗流れ旗の原型となりました。 | 地蔵菩薩立像(伝・井伊共保秘仏) (全長約73cm) | 鉄縁昇日月輪軍配ー妙雲院祐圓公遺物ー (伝正楽寺什物 参考寄託調査品) |
井伊肥後守(直親ー直政父)像 | 小野但馬(道好)像 | 紅裾濃腹巻(本称胴丸)(参考品) ―人間国宝・故小野田光彦作― 古作大鎧復元の名工小野田光彦の手になる鎌倉古式の珍しい腹巻です。中世、若き女武将をイメージして製作したもので、名門の女性は自身着用の鎧を作らせたものでした。若い頃の直虎もこのような華やいだ胴甲を別装用として所用したことでしょう。 |
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井伊家最古の系図
井伊氏族系図伝記(岡本宣就撰)井伊氏族系図伝記(岡本宣就撰) -井伊家最古の系図- 井伊直政、直継、直孝、三代の井伊家創業に係る藩主に仕え自らも上泉流の軍師として、井伊軍の軍配を預かった名臣岡本半介宣就(無名老翁・喜庵)が寛永二十一年に考証記録した自筆による井伊家系図で、井伊氏の系図としては藩公認現存最古の系図です。あく迄男系を尊重した古系図のやり方で、この中には次郎法師ないし直虎のことは皆無です。そのままで見る限り存在のあとさえありません。次郎直虎時代の生き残りが存在していた時代、また自らも井伊家史の学者を任じていた当代一流の人物が著したものとして、時代の風潮を偲ぶ重要な史料と思えます。 | 井伊氏族系図伝記2 | 井伊氏族系図伝記3 |
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井伊氏族系図伝記4 | 井伊氏族系図伝記5 |
井伊直政
井伊直政初陣所用甲冑(芝原合戦)井伊家家臣今村家伝来 | 直政初陣の兜 | 直政初陣の鎧櫃 |
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井伊直政像 | 井伊直政像(井伊神社御神体)彦根職人町弥惣右衛門謹作。 美化された青年像。 | 井伊直政神像像背墨書によれば、旧佐和山城麓愛宕山仙琳寺(直政終焉の地)に藩主井伊直中(直弼の父)が寛政十年二月一日(直政の命日)に造立奉祀したもの。明治三十四年四月、井伊直政三百年記念祭の節に修復再興されたものです。直政晩年の容貌をあらわしたもののようです。仙琳寺義空の造顕銘があります。 |
徳川四天王図(望月玉蟾作)井伊直政の兜が史歴にのっとって忠実に描かれている珍しい作品。 | 直政表情アップ天衝前立に五本菖蒲が描かれ、唐の頭がついていることに注目。 | 井伊万千代直政幼児の馬の絵井伊家重臣小野田小一郎為典証書添 |
徳川家康安堵状(天正十年十一月)-井伊直政代筆- 今川家滅亡後、改めて徳川家康のもとに服属した今川の旧臣三浦与三郎元貞(彦根藩老臣三浦内膳家先祖)に発給された家康の知行保証状(安堵状)。この頃はまだほとんどの地域が貫高制で、この時代を背景にした記録類で石高表現をしているものは現代人にとってわかりやすいですが、殆ど全て江戸感覚の書き物にみられる特徴と考えられます。尚本書の奉者は井伊直政で、見事な筆蹟です。「権現様御朱印」として江戸時代井伊家の藩主が「改め拝見」の時、必ず手水嗽をしてから拝したもので、この一札がある限り、三浦家の代々に対して藩主は勝手な断罪処分は出来ませんでした。尚三浦元貞も亡滅に瀕した井伊家の回復に尽力した功臣の一人で、直政、直継、直孝三代に歴仕、その葬送時には彦根領内全域が数日間の鳴物停止の追悼となりました。 | 井伊直政自筆条書天正10年夏、家康は甲州若神子において北条氏直の軍と戦いました。秋になり講和の議がおこり、井伊直政が正使となって北条方に赴き、和議を締結。大きな使命を果たした直政は時に22才。本文書は直政が戎衣の内に秘めた講和の条件を記した重要なメモで、直政自筆の政治文書としては最も時代的に古いものです。(『大日本史料』『井伊直政歴史関係文書』『井伊軍志』等所収)(井伊家蔵) | 井伊直政書置(中村不能斎釈文付) 関ヶ原のあと、西国豊臣系大名の処遇についての指示書。 井伊直政としては唯一の書き置きとなった。 宛所の木俣清左と鈴木与惣は木俣守勝、鈴木重好である。 |
「和敬清寂」四文字「和敬清寂」四文字 井伊直政三十歳の頃の筆蹟。 若年流浪の時代文学や兵法を学んだ成果が窺われます。 直政の人生で最も輝いた得意の時代の筆蹟です。 | 井伊直政拝領の薬井伊直政拝領の薬 井伊直政関ヶ原記念の干飯(ほしいい) 関ヶ原合戦で負傷した直政に家康が与えた蛤貝にねりこんだ軟膏と、その時の腰兵糧の干飯です。干飯は経年のため大変小粒になっています。今仮りに明治の山田朝右衛門丸(本来の浅右衛門のアサは浅です)がはいっていたガラス瓶にいれています。 | 朱長柄采配朱長柄采配 祥公(直政)より久昌公(直孝)へ賜ったという采配。柄の長さが約60㎝もあり、金具に橘紋を彫った珍しくかつ豪勢な采配です。 |
井伊直政より今村正実に与えられた朱の采配井伊直政より今村正実に与えられた朱の采配 | 井伊直政所用 鉄艪透かし図鍔(井伊家家老 宇津木家伝来)井伊直政所用 鉄艪透かし図鍔 (井伊家家老 宇津木家伝来) | 古鼓胴(井伊家旧蔵の古い鼓の胴。直政以前の古物で、直弼も愛蔵したと伝える。寄託調査品)古鼓胴 井伊家旧蔵の古い鼓の胴。直政以前の古物で、直弼も愛蔵したと伝える。 (寄託調査品) |
井伊直政尊崇飯綱権現井伊直政尊崇飯綱権現 飯綱権現を敬拝した有名武将に上杉謙信がいますが、謙信に憧れた直政も飯綱権現を尊崇しました。 (寄託調査品) | 井伊直政武装像井伊直政武装像 |
井伊谷龍潭寺関係
徳川家康判物(写)(井伊家本)徳川家康判物(写)(井伊家本) 天正十四年九月、既に井伊谷を含む遠州中を手中に収めた家康が、龍潭寺に対し従来の権益を保護する旨を記した文書。 当時家康は叙任のための便宜上、藤原氏を称していたという面白い史料。最古の写本です。 | 龍潭寺文書(井伊家本)井伊谷龍潭寺文書(井伊家本) | 龍潭寺祖山彦根藩庁への届書ー正徳2年ー(井伊家本)龍潭寺祖山彦根藩庁への届書ー正徳2年ー(井伊家本) 龍潭寺ならびに共保井戸等にかかわる由緒石碑等についての認知依頼書。 共保出生の井戸の所属権について正楽寺と訴訟事件後の書上。 |
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