井 伊 美 術 館
当館は日本唯一の甲冑武具・史料考証専門の美術館です。
平成29年度大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」の主人公直虎とされた人物、徳川四天王の筆頭井伊直政の直系後裔が運営しています。歴史と武具の本格派が集う美術館です。
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母利美和氏監修になる
『図説 日本の城と城下町⑦彦根城(創元社)』ガイドブック中の
出典不記載及び歴史事実の誤認その他について
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目次
(一)典拠史料所蔵者不記載の件 —序にかえて—
(二)「所蔵者不記載」発見とその顛末
(三)『歴程集』中における母利氏評
(四)母利氏の「二代井伊直継」恣意的省略
(五)『新修彦根市史』による「直継二代藩主の認証」
(六)述べて作る行為
(七)ガイド書中の掲載系図の誤りについて—懐しき井伊直虎物語
(八)書中の附録関係図書紹介項「彦根城と城下町を舞台とした関連作品紹介」における『獅子の系譜』の誕生の真実
(九)あとがきに変えて
(四)母利氏の「二代井伊直継」恣意的省略
井伊直政には息子が二人いる。一人が大坂夏の陣の功で大躍進を果たし、彦根三十五万石の礎を築いたとされる井伊直孝である。もう一人が嫡男で、直孝の兄の井伊直継である。彼は彦根藩主を十三年間務めたのち、家康の命によって直孝へ封を譲り自身は上州安中へ移った。
この直継に対する母利氏の史的態度、すなわちガイド本中における氏の執筆内容に偏向ないし不備が見られる。氏の監修した該本において、この直継は”彦根藩第二代”として扱われていないのだ。これについて彦根藩の代数から直継を除外する旨が凡例の小さな欄の中に記載されているが、その「説明」自体が恣意的誤りであってこのことは次に詳述しよう。
これまでの日々で筆者は、実質的な彦根藩第二代でありながらその存在を閑却されてきた直継(のち直勝と改名)に係る新出の史料もいろいろ採集してきた。この人は蒲柳の質であり、動乱期には向かない人物ではあったとされている。しかしこのことが全くの事実であったか否かは分明ではない。そのように扱われてきた面も少くないことも事実のようである。
直継施政の史的現実は、彦根藩の初政をたしかに家康から承け、戦国の曲者揃い、一筋縄ではいかない連中を兎も角も抑え十三年間にわたって藩主として統治してきたという事である。これが史料上に浮び上がる史的現実である。
その一生を簡単に総括すれば、徳川幕府草創期において公儀にただ一筋忠勤を励み(たとえば慶長十三年、伊賀上野城主筒井定次改易に際し伊賀上野に出張し、本多忠勝、松平忠政らと共に城を請取り、のち同城警衛の任に当たっている)、老練な家士の扶けを受けつつその任をこなし、実直にその生を全うした武将だった。病弱といいながらその実弟の直孝より長生きし、自然のままの如くに世を去った。寛文二年七十三才である。本人ははじめから戦場闘争の世界から身を退いていたかの如くであり、弟の直孝の英勲の陰に隠れて後世史家の評価の埒外におかれてきたが、彦根井伊家の歴とした第二代である。また父の直政の通称、天下に鳴った「兵部少輔」を称していることも重要である。
彼の治世中二度に渡る家中不和による対立事件があったが、これは直政晩年既に家中に萌していたもので、その問題の中核、主人公は鈴木石見重好である。この件は本稿に直接関係がないので詳説はしないが、石見重好の不正、専横を見兼ねた老臣の西郷勘兵衛や川手主水景倫が団結して立ち上がり、これに木俣守勝が一味した結果、木俣守勝の家康への直訴が功を奏し石見は家中を追放された。この木俣の行動は家中仕置を木俣に一任した直継の信任による結果である。
このことを最初に藩の古記録から知ったのは筆者二十七歳の頃で、のち「彦根騒動」と題して『彦根藩侍物語(昭和四十七年刊著者中村達夫名・八光社』の中でその大概を紹介したことがある。
そしてこれらの事実は結果的に次に来る第三代井伊直孝施政の土壌を容易ならしめることにつながったのである。改めて彦根初政、二代直継としての治世は見直される必要がある。
私は今をさるおよそ半世紀前(昭和五十三年)、『井伊軍志』といういわば井伊直政伝記を『湖国と文化』という滋賀県の文化雑誌に長期連載し、のちこれを上梓した(平成元年刊B5判484ページ 限定1000部)が、その書中において次のように書いている。要約すると以下の如くである。
——井伊直継という人ほど近世井伊家歴代のなかで影の薄い人はない。戦国末の天正十八年に生を享け、戦国の余燼燻る慶長六年、十三歳で家督以来江戸中頃の気配初む寛文二年に至る七十三の春秋を得た。しかし直継には個人的生活を伝えない。人生が漂白化されてしまっている。この「人生の漂白化」は、後世に弟の直孝を偉大なる『彦根創成・第二代藩主』と仕成すための意識的操作行為が行われたことを推測させる。
しかしともかくも直継は優しかった。いまだ直孝が「掃部助」時代、直継から猟具(りょうぐ)として借用した武具類を破損した時も、直継は認容して直孝を赦している(慶長十五年三月井伊直孝書状—筆者蔵)。後世、直継における史評はこの直継の人間的優しさに都合よく便乗してきた観がある。


井伊直孝猟具借用一件書状
改めていうまでもないが井伊直継(のちの直勝)は直政の嫡男である。父の幼名万千代、通称兵部少輔を継ぎ、更に右近大夫に転じのち直勝と改め、佐和山十八万石を領した。位階は従四位下である(井伊家の嫡流はこの直継の系統でありのち越後与板藩、維新後井伊子爵家となる)。父直政が死んだ慶長七年十三歳で遺領を継ぎ、元和元年二月多病を理由に弟直孝に跡を譲るまで前後十三年間彦根の藩主であった。直継襲封の事は『井伊年譜』や『寛政譜』に明記され、就中『年譜』ではそのあと直継麾下となった諸将士の分限帳が列記される。
『井伊軍志』引用中の猟具の一件や前述した彦根騒動における対応は直継のまこと温順な人柄の一端を示しているが、つまりは乱国の将としては不向きであったということになろうか。乱世の将たるものは血と暴力の中にまみれ、決断から決断へと跳び渉ってゆく果断の勇略を必要とする。好意的かつ詩的に表現すれば直継は温雅の中に優遊するタイプの人物であった。これが徳川中期の藩主の立場であったら、直継は井伊家名君中の数に入ったかも知れない。いかんせん、時代は風雲のさなか、主将は象徴的な紳士では立ち得なかった。家臣に率先して刀槍の巷に身を置く強悍な獣性が必要であった。直継にはそれがなかったとされている。果たしてそれは真実だったか。この点については既述したが今後尚研究考証の必要がある。

井伊直孝像 (井伊美術館蔵)
筆者は早くから直継の治世の年数を無視して来た一部彦根藩史を書く人の謬見を指摘し、この「彦根藩第二代井伊直継」について、上記引用の『井伊軍志』のみならずあらゆる井伊氏の近世史的なものを述べるに際しては必ず「井伊直継彦根藩第二代」を明瞭にして強調することを忘れてこなかった。
諄いようだが「井伊直継彦根藩第二世」は動かすことの出来ぬ史実であり、直継や彼について奮励し苦労して上州安中へ移り去っていった家臣たちの為にもこのことは何度明記してもくどすぎることはない。後ほど掲出する直継発給の家臣への知行宛行状は何を意味するか。あの文書中における花押は誰が署したのであるか。それは他ならぬ直継である。図らずもこれが「藩主直継」の「存在」と、実際的政治行動を証明した。
また家康が直政死去後、直継継代の件につき側近の青山七右衛門(成一)、土井甚三郎(利勝)、戸田十郎右衛門(重之)をもって直継に奉公の旨を木俣(土佐)、鈴木(石見)、西郷(伊予)三士に伝えている史料も存在する(三浦家文書)。これらの史料の存在をみるだけでも直継二代藩主削除は歴史を専門的に研究する者として、いわば一種の「無法行為」の実行ではないかと考えられるが如何なものか。

井伊直政,直継,直孝三公位牌(井伊美術館安置)