井 伊 美 術 館
当館は日本唯一の甲冑武具・史料考証専門の美術館です。
平成29年度大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」の主人公直虎とされた人物、徳川四天王の筆頭井伊直政の直系後裔が運営しています。歴史と武具の本格派が集う美術館です。
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※当館展示の刀剣類等は銃刀法に遵法し、全て正真の刀剣登録証が添付されている事を確認済みです。
宇都木三四郎所用具足
井
伊
直
政
所
用
具
足
井伊達夫 公演実記
井伊直虎・直政そして忠直卿
ー武辺徒然草ー
(一)
3年ぶりになりますか、久しぶりの鯖江再訪でなんとも言えない感慨を抱いております。今回もまなべの館の前田さんをはじめ、みなさんにお世話になりまして、今日も実は午前中に一乗谷に行ってきました。約30年ぶりに訪ねることができましたが、これは私の宿願の一つで、生きているうちにもう一回くらいは行っておきたいなと思っていました。みなさんも年を取ってこられた方はあると思いますが、そろそろ生きている間に巡礼をしていこうと思ってやっていることが30項目程ありますが、今日で一乗谷に行けたので2項目くらい消化させてもらったということになります。
今日のタイトル(「井伊直虎・直政そして忠直卿-武辺徒然草-」)は直虎・直政・忠直卿の話ですけれども、サブにもありますように、「武辺徒然草」といいますか、その頃の侍の精神を中心に話ができたらいいなという考えでおります。ということで、必然的にその頃の武具の話をしなければならないなということで、タイトルはこうして一人前になっていますけども、話があっちにとんだり、こっちにとんだりするのが私の話の特徴ですので、気楽に聞いていただいて、わからないところは後ほど質問していただいたらいいかと思います。
そこで、まず今現在、大河ドラマで「おんな城主直虎」が放映されていますけども、これははじめから「問題があるなと」疑問を持っている方がたくさんあったのですが、当方の資料から直虎が今川家から来た青年武将であったという資料が出てきました。
そこには、従来「次郎法師」という人が変身して直虎になったとされていますが、ただ、従来といいますが、この話は現代になってからできた話でありまして、江戸時代からそういうことになっているわけではありません。井伊谷の龍潭寺の『井伊家伝記』の中に「次郎法師」が出てきますが、この人が「直虎」になったということにしたのは現代の人間でありまして、その時代から「次郎法師」が「直虎」に変身したということは一言も書かれていないのです。
この直虎に関しては私も書いているものがありまして、今日の講演には上巻ができて、いくつかはこちらに持ってこられるかなという予定だったのですが。何もかも予定は全部狂うものでして、他にも直弼の青年期の実像も今書いているのですが、これとだぶって、他の仕事の関係もあって、つまりは遅れてしまっている状況です。
直虎に関してはこれから簡単にお話ししますが、井伊谷というところに行かれた方はわかると思いますが、狭いところです。そこで、「次郎法師」が仮に「直虎」だとして、彼女が男名乗りをする必要は全然ない。近くの村の人々もみんな知っているので、意味がないのです。男になるメリットというものがあんまりどころか全くない。なぜ、そんなことになったのかというと、現代の歴史の研究家の一部の人が、悪気はないけれども、唯一、次郎名乗りの手紙、関口氏経との連署状ですが、これが「次郎直虎」となっているので、「次郎法師が次郎直虎になったのだろう」という短絡をされた。その結果、そういった話ができて、ドラマが生まれたということです。ですから、ドラマの話というのはもともとフィクションですから、NHKさんも承知の上で話を進めて、今終わりに差しかかっている状況でしょうけども、ドラマは一年で終わりますが、歴史事実の誤認というものは、これは一年二年ではなくて永久の問題です。正しくしていく必要があるので、持説は遅れていても書いていく必要があるな、という考えで今執筆している最中です。
そういうことで、直虎は正しくは関口越後守氏経という人の息子です。一般に考えられている直虎という人は次郎法師が変化したものという考えになりますが、これは資料が出る前の話です。次郎直虎という人は青年武将で、本来は今川の本拠の駿府に居たのだと思います。関口越後守というのは、今川家では五番以内に入る実力者ですので、彼の息子が井伊谷に来たということは、派遣司令官として来たということです。彼が一時、井伊谷を治めたというか、進駐軍のトップとして来たのですね。彼を補佐したのが新野左馬助親矩という人物で、関口越後守の弟であろうと思いますが、叔父と甥の間柄です。本来は新野も関口だったのですが、新野左馬助が次郎直虎の実質的家老になる。
例のドラマを観ておられる方はご存じだと思いますけれど、小野但馬というのが悪役で出てきますが、この人は井伊家のこの系統の家老というか譜代ではないわけです。井伊直盛、つまり次郎法師のお父さんの系統です。一般に解釈すると、井伊直虎はここへ養子として入ったのではなかろうかという考えが多いのですが、井伊家は直盛が桶狭間で討ち死にした時点で井伊谷は無主状態、つまり真空地帯になってしまって、もちろん今川氏の領域ですけども一時ブランクがあった時がある。ですから、そこへ「これではいけない」というので直虎が派遣されたと。ところが、若いので新野左馬助が補佐したと。
これは実際の話で、城主というか井伊氏そのものが衰えていますので、井伊直盛そのものが死んでから、どうも本来の井伊家は求心力を失っていた状態です。それで例の彦根開府の祖になる井伊兵部少輔直政、この人の系統は直盛と次郎法師の系統とは全然違う別系で起こってきた人物です。ですから、ドラマでは肥後守直親は次郎法師の婿になるはずだったということになっているのですけれども、それは『井伊家伝記』の中に出てくる物語を種にして作られたフィクションです。井伊直虎という人はそういう人物でして、いってしまえば特別に色々なドラマチックなことをしたということは、実際の話でいえば何もないわけです。
(二)
ドラマのほうが面白いかもしれないけれど、現実はもう少し違いまして、大変複雑に入り組んだ話です。徳政の問題というのはご存じだと思います。今川氏真による徳政を井伊直虎が二年間凍結したとなっていますが、これはそういうことでは全然なくて、当時の井伊次郎直虎、これはドラマの直虎ではありません。井伊次郎直虎が腹心といいますか、取り巻きの銭主方、金貸しの人々および当時力のあった井伊主水というのがいます。これは本来、川手主水という人物でして、自分の息子を直政の姉に嫁がせて、一時自分も井伊を称したことがあります。彼は相当政治的実力があったようで、本来は徳川家康の系統の家来ですけども、戦国時代のことですから、自分の領地に小さい城を持っていたのです。ただ、城といっても今のような天守閣を持つ城ではないことは皆さんご存知だと思います。お寺に毛の生えた程度のですが、そういう領主だったのが、武田に追われて井伊谷のほうに新野左馬助に呼ばれてきた。この人は情報収集と操作と経済的能力、作戦的な武略もなかなかあって、つまり肥後守直親の娘を自分の息子の嫁にしてしまった。
そして、井伊を名乗って、この人物が瀬戸方久らとともに徳政を無視していたわけです。無視できたということは、要は今川氏の力がもう衰えていたということですね。今川氏が例えば織田氏のように力があれば、今川氏の家来もそういうことはしないでしょうけども、つまり今川の駿府の威令が井伊谷まで及んでいなかったという一つの証拠です。適当にやっていたということですね。これでは困るというので、ドラマでいう正義・不正義で言ってしまえば、正義派みたいになりますけども、金貸しの横暴に苦しんでいた百姓や地方の侍たち、こういう人々を代表に駿府に直訴しまして、徳政の実行をお願いするという運動にでた。結果、徳政が実行されることになるのですけども、その一ヶ月くらい後には徳川軍とか武田軍が侵攻しまして、今川家がアウトになる。
徳政と井伊家の系統が立ちこんでくると大変ややこしい話になりますが、そういう意味でこの武辺のことになってくると、川手(井伊)主水とか新野左馬助とかいう人々は、大変武辺者でして、例えば、ドラマの中でもう出ているのかは知りませんけど、井伊谷三人衆というのがおります。鈴木・菅沼・近藤。鈴木というのは江戸時代にあの辺りの領主になりますけど、彼らが「我々が井伊谷三人衆ですよ」と言って、家康も「そうかそうか、安堵してやろう」ということで、あの辺りの領地を実は上手いことものにしてしまう。これも戦国の作法で、やった者勝ち、言った者勝ちです。井伊家と三人衆、親戚関係は結んでいますけれども、本来は場合によっては敵になってしまう。戦国ですから、取るか取られるか。我々の新しい資料の中には「井伊家と三人衆は親類のようになっているけれども、全然親しくない」ということが書いてあります。
ですから、そういう時代の武辺、今回の武辺の話にこじつけることはないかもしれないけど、「切り取り強盗世の習い」という言葉がありますけども、当時、江戸時代の儒教に影響された正義感というものは何もないのです。自分の武功と一分を立てるという意地、そういうものが侍の中でぶつかり合って、その大なるものは最も横暴でないといけない。これが後々の忠直の話にも影響するのですが、お上品なことは一つもありません。人のものは自分のもの、自分のものは自分のもの、という感覚でやらないと自分の家の保持もできない。守りばかりでなく、攻撃しなければ守ることはできません。いわゆる専守防衛ということは防衛ではなく、負けるということですから。野球でもなんでもそうですが、守りを固めるのは大事だけども、攻撃力がないといけないというのは、つまり個人でも同じことで、やられる前にやっつけるということがこの時代です。
井伊直虎は大人しい君子ですから別ですけども、直政や忠直にしても、今の我々の感覚でいくと大変無茶苦茶な人に見えるけれど、武辺者というのはそういう者です。人より先に人を殺す。それも平然としないといけない。いかに殺していけるかが、その人の存在感を表すバロメーターになるわけです。例えて言えば井伊直政、この人は人斬りという渾名が付けられて、高崎箕輪の城主の頃には登城するときには、家来はみんな水杯をして出たという。これが忠直の時も同じことですよね。だから、戦国時代はみんなこういうものであったというのは、今まで我々のような一般の人は感じないことですけど、こんな残虐なことをする人は暴君であって、ひどいことをするものだと感じるのは、江戸時代の教育の結果です。血を見ることは水を見る、火を見るもののような人にならないと戦国は渡っていけないし、生き残ることはできないという時代の話です。ですから、今の家庭ドラマのような時代劇は本物ではないということが当然ながらわかるわけです。
(三)
ここに直政の芝原合戦所用初陣の鎧の写真が出ていますけども、一般にはご存じない方も多いと思いますから、鎧の話を少しさせていただこうと思います。
これは赤具足のもっとも古いものになりまして、兜の前についているもの、これを「前立て」といいます。兜の横に耳のように出ているもの、これを「吹返」といいます。これは源平時代の大きくがばっと反っているものの名残で、何の意味もなくてただ付いているだけ。源平時代や鎌倉時代の吹返というのは、側面からくる矢を防ぐためのもので、吹返があることで表に飛んでくる矢を避けることができます。その名残がこの吹返というものです。そして、次が𩊱です。今のヘルメットあるいは警察の機動隊にもこの影響があって、こういった𩊱が付いていますね。
顔を覆うものを面頬といいます。この面頬という言葉は時代の若い言葉でして、本来は頬当といいます。今展示されているものの中にもありますが、これは仏胴といいます。なぜ、仏胴かといいますと、つるっとして裸みたいだからというところからです。古い形式の鎧あるいは安物の鎧、軽輩の鎧にはこの仏胴が多いです。でも、これは実用的で大変いいわけです。なぜかというと、槍溜りにならない。槍の先がひっかかりにくい。これがもう少し時代が下がってくると、南蛮胴の形式が入りまして、下に鎬が付いて、鉄砲玉が除けやすくなるように角度が付いて尖がってくる。現代でもそれは数が少ないので意外に尊重されます。いうなれば骨董的価値が高くなるということです。そして、草摺。
こういったものの中では一番優雅な名前ですけど、草に擦れるので草摺というのですが、本来は下散です。佩楯は大腿部を守るもので、その下が脛当。小手の上には本来、袖があるのですが、陣羽織を着用するようになってからは袖が省略されている場合が多いです。ですから、普通、戦国時代の甲冑はこういうものです。
これに羽織を付けたり、立物がもっと大きいものになったりする。立物が前からついているときは前立、脇から出ると脇立、後ろから出ると後立、頭のてっぺんか出ると頭立といいます。戦国時代には自分の意志表示というか自己顕示を立物と旗指物でしたわけです。旗指物と背に付ける作り物がありますね、例えば鉞を造形してそれを自分の指物にするとか。大きな金の半月を指したり、あるいは銀にしたり。大坂の陣における後藤又兵衛基次は、「銀の五尺の天衝」と書いてありますが、それを背に負って大坂の陣に出て鉄砲に当たって、ひっくり返って起き上がることができなかったと。ただ、どれだけ重いといっても、だいたいこういうものは本来桧の薄板で作ります。金属では作らない。ですから、立物でも前立の小さいものは金属もあるけれども、概ね天衝というのは良い格好なのです。井伊家の赤備えにおける大天衝はトップ、リーダーしかできない。部隊長とかいわゆる侍大将は紛らわしいから脇立は禁止です。後立や前立もいいけれど、ただ天衝の脇立は井伊家の主人(藩主)だけがこれを使うことになっていたのです。
だけど、これも色々と研究してみると、関ヶ原合戦の頃に井伊直政が使った鎧は初陣よりも後のものですけども、まるっぽの頭形という飾りも何もないものを使っています。でも、それは色々で、我々がブレザーを着たり、シャツを着たりするのと一緒で、その時の気分によって。普通、千石より上の人の着領、鎧というのは一つということはないですね。夏と冬の両様くらいは作るし、着替えもあるし、スペアが二つや三つはあります。ですから、よく「誰々着用」として残っているものも、よく吟味してみると色々な問題が出てくるわけです。問題というのは、甲冑というのは一度着用すると大抵めちゃくちゃになります。私は以前、甲冑を着用して実戦をするということをやってきたことがありますけども、鎧の小手は竹刀でもへこんでしまう。ですから、実際の刀・太刀・槍なんかが当たると本当はひとたまりもない。鎧の効用というのは着用したことによって気持ちをきめていくということにある。
剣道をされたことがある方はわかると思いますが、防具を付けたら動きにくい。ただ、剣道の場合には一定の約束があって、その範囲でやる動作なのでいいけれども、首を取るか命を取るかということになってくると、剣道の防具でもよくわかりますけど、大変動きにくい。鎧のことは一般に当世具足といいますが、これが具足になると本当に視野が狭くてわかりにくい。音も聞こえにくい。でも、逆に閉塞感があって安心感がある。だけど、これは我々が槍や刀でやりあわないからそんなことが言えるのであって、実際に真剣勝負になったら、やっぱり顔のものは外してしまう。大坂夏の陣ではほとんどみんな裸でやっていたということが記録にありますけども、鎧兜に身を固めてということでは冬だとしたら物凄く寒い。鎧を着ると冷蔵庫の中にいるような感じになりますね。動き出して命がけになってしまえば忘れてしまうのかもしれないけども、とにかく、日本の鎧も西洋の鎧も違う意味であまり合理的ではない。なんのためにあれをするのかな、と思うと、やっぱり日常で非日常にあるという感覚を持つということでしょうか。普段は普通の格好で、鎧を着ると「これはただごとではない」というように、気分を変化させる道具ではないかなと思います。
それに近い話が『名将言行録』だか何か、真田信繁の言行の中に、自分の部隊を率いて敵と戦う時に、槍も置かせて、兜も脱がせて、ほとんどの装着物をどけた状態で敵と対峙して、間合いが迫ってきますね。これは敵間が迫って来たら、まず頬当てを着けよ、さらに近づいてきたら兜を着けよ、さらに近づいてきたら脇差を確認して、いよいよ槍合わせになった時に槍を持て、とやらせたらみんな勇気100倍したという話があります。これはなぜかというと、そういう具合にして心の準備を順番にさせていくということです。そういう意味で、私も何回か鎧を着用して平和な遊びをしたことがあるけれども、実用的という感じはあまりないなという気はしました。ですから、本身の刀や槍で突かれたらひとたまりもない。要するに、メンタルな部分で、気分を奮い立たせるための道具かなという感じがしました。戦国時代の武田の武将のような豪傑は素肌で敵の城に乗り込んだりしていますけれども、どのみち命を懸けているのだから案外にそのほうが働きやすい。
普通、頭痛持ちの人は兜を30分も被っていられない。頭がガンガンしてくる。大坂夏の陣の八尾の戦いで、藤堂家の誰か、仁右衛門か誰か忘れましたけど、この人は頭痛持ちで兜を被らなかったと書いてありますが、被っていられないですね。暑いし、頭痛持ちだと指揮も取れない。鎧というものは侍の表道具ですけれども。
話しは飛びますけども、「鬼平犯科帳」で鬼平さんが陣笠を被って、腹当てを着けて出動しますね。陣笠はもともと早い話が素材は紙で、粘土細工に漆を混ぜて成型をしています。だから、あれは刀で斬りつけられたら役に立つかといったら、何の役にも立たないです。腹当てもただの布ですので、何の役にも立たない。なぜ身に着けるかというと、あれによって身が引き締まる。公務出動であるといいますか、公務執行に当たるので、あの格好をした者に歯向かったら、今でいえば公務執行妨害で斬り捨て御免でもあるし、特に火盗改めというものは暴力団みたいなものです。ですから、そういうものを着けて出動している者に対しては恐れ入らなければならない、そういうための象徴の道具。
鎧もそういうもので、大きな立物を付けて、指物を付けて、母衣を付けてやっていると、もう動きにくい。本当は母衣なんて邪魔になる。ところが、あれは伝令将校の印であるし、ある侍にとっては名誉の印です。先祖代々、朱母衣とか赤母衣とか、信長の黄母衣衆とかありますが、あれはつまりは命懸けで手柄、首をたくさん取ってきて許される名誉の印なので、不便であろうと何であろうと、それを着けられるということがいいわけです。男の生きがいで、実際に槍先で敵を倒して、馬から降りて首を取るということも少ないですから。そんなことをしていると、またやられるので、槍で突いたら、後は家来が寄ってたかって殺して、その人の手柄にするわけです。そして、その首を取るということも自分の味方が多くないと奪われますから。奪い首というのはたくさんあります。
今、話がだいぶ飛んでいますけど、大坂の陣で一番問題になっているのは井伊家の場合でも高名帳がありますが、その中に一番多いのはやっぱり奪い首です。味方同士が取り合いをしている。そして、裁判になって負けた者は腹を切らされるか、追い出されるか、そういう記録がたくさんあります。いつの時代でも、楽をして何とかしようとする人がいる。それと手に合わない、
初陣所用
井伊直政所用具足
手に合わないというのはタイミングよく弱い敵に合うことができない人。その場合は手柄がないので加増もなければ、役にもつけない。要するに家柄が上がらない。ですから、戦があったときはできるだけ、何とかして稼がなければいけないのです。何とかしてでも首を取らなければいけないということで、色々な誤魔化しがあって、坊さんの首を切ったり、急いでいる時は耳を切ったり、鼻を削いでもいいということがあります。急先手で、桶狭間の信長みたいに。首を取ると手間がかかるので、場合によっては鼻とか耳でもよくなる。ただ、そうすると鼻は口にかけて切っておかないと男女の区別がつかないので、必ず上顎にかけて鼻を切らないとだめだということが書いてある本があります。
戦国の首取りの話になってきましたけれども、直虎の話はそういうことで。話はあっちに行ったり、こっちに行ったり前後しますけれども、今度は当世具足よりも少し前の形、胴丸という形の鎧の話をします。
井伊直虎の時代は戦国末期ですが、室町の前中期には胴丸という形が一般的でした。胴丸というのは、一番下卒は使えないけれども、さりとて総大将が使ったりしない。昔はランクが色々とあ
井伊直虎所用胴丸
ったのですが、室町時代の中期くらいからは乱れてきまして、大将クラス、将軍なんかは大鎧ですけども、大鎧のサンプルはここにはないですが、これもややこしい話で、「胴丸」というのは本来「腹巻」が逆転して、後で「胴丸」になっています。ですから、今、我々が「胴丸」といっているものは本来「腹巻」です。名称の逆転の話をすると、何が何やらわからないようになるのですが、要は鎧を構成する小さい単位を小札といいますが、これを全部糸で縢り合わせて組み合わせてある、板ものを使わないもの。板物というのは、展示でもある本多富正の桶側胴という鎧。一方本小札は全部綴じてある。これは大変な手間になります。なぜかというと、鉄板の上に下地をして、下地というのは木屎といいますが、木を盛り上げる。盛り上げるというのは、繊維のカスとか、木の屑とか、麻を粉にしたようなものを練り合わせて、成型して鉄板の上に盛り上げて、一つ一つボリュームを作ってある。これを全部糸で縢ってあるのが胴丸で、すでに鎌倉時代、平安の末くらいには胴丸の形式、平安時代の頃は腹巻といっていましたが、出現していた。
長曽祢光正・元和八年作在銘
本多富正所用具足
これが前代の形式で、腹巻が胴丸になって、胴丸が腹巻で、今は逆転しています。呼称の逆転というのは、今さら訂正が効かないほど変わってしまっていますけども。昔の形がさらに簡略化されて、先ほどの本多富正のような当世具足、当世というのは「今の」という意味になりますけども、信長以後の江戸前期くらいの人々が、「当世具足」といったのは「今の鎧だ」という意味です。それは、胴丸のような古鎧と区別するための呼称ですね。
そういう形で、これが戦いの仕方の変化、鉄砲が一番大きいですけど。鉄砲が入ってきてから白兵戦の仕方が変わってきまして、集団戦がさらに厳しくなってくる。そうすると、毛引といいますか、たくさん糸で威しているものは引っかかりやすいし、雨に濡れるともう乾かすのが大変です。板物の鎧だと素懸といいまして糸が少ない。糸が少ないと乾かしやすいし、何にしても便利。足軽の話にも、足軽の陣笠は鍋の替わりにするというのがあるでしょう。戦争が現代的になってくると、要するに儀式ではないので、名乗りもあれこれ言わずにすぐやります。源平時代は任侠の渡世の仁義みたいに名乗りを上げますね。名乗りを大きな声ですらすらと言えな
(四)
そういう意味で、直虎から直政に入ってきた話ですが、井伊直政という人も大変な人斬りで残酷で冷酷非情な人でありましたが、それはなぜかというと、さっき言いましたように、戦国を生きるためにはそうでないとだめなのです。今は井伊家の本流になっていますけども、直政は井伊家の傍流の出です。直盛とは何の面識もないけれども、桶狭間で直盛が死んだ後に井伊家の名を興して、後に井伊家が30万石になったから井伊家の宗家ということになりましたけれども、本来は庶流です。庶流から本流になってきた。でもそれは、直政が自分でそのようにしていったわけです。ですから、江戸時代の話は全部「井伊直政の家が本流である」。つまり、今残っている井伊家は全部本流の系統であるとしたわけですね。
本当なら井伊家はたくさんあります。井伊谷のほう、例えば、中野・奥山とかは本来は井伊の一統です。奥山というのは井伊直政のお母さんの郷の名前ですけど。そういう具合で本流も庶流も、後の人々が出世をすれば庶流が本流になるのです。
落ちぶれたら、本流・本祖が分家になってしまう。そういう、ともかく実力主義の時代によって家格形成ができていったわけです。
ですから、直政、そして井伊家の場合で言いますと、井伊家も二軒あるのですけど、直継と直孝は兄弟です。井伊家の最も古い系図というのが寛永の頃に作られたもので、井伊家の軍師の岡本宣就が撰した「井伊士族系図伝記」というものが、井伊家の現存する一番古い系図です。この中にはもちろん、直虎という人は全く出てない。肥後守直親、つまり次郎法師の許嫁、これもドラマで許嫁とされているけれども実際は許嫁でもなんでもないですけども、井伊直親の系統の直政のことが一番詳しく書いてあります。これが直盛につなげてある。ところが、実は本当はつながっていない。この中に当然ながら次郎法師も登場しないし、直虎も登場しません。
直虎のことで結論を言うと、直虎は女ではなくて男であって、別人である。次郎法師も別にいて、徳政を延期・凍結したのは直虎ではなくて、別人である。つまり、永禄11年(1568)の冬(今の11月とか12月)には徳政が通りましたが、その暮れには今川家が滅亡するという皮肉な結果に終わるわけです。
一般の研究者が一番抜かしがちな大きな問題をここでお話ししておきたいのですが、今川家の内部はもう腐っています。内部が腐りきっていて、賄賂政治になっているので、賄賂をたくさん渡さないと上に話が通らない。今の研究家はこれを言わないし、知らないですが、全部金です。お金でひっくり返る。だから、今川家の内部はほとんど侍の根性は失ってしまって、全部がなあなあで済むようになって、一族とか一門らだけが仲良くしていって、そういう者の中において政治をやっている。下から上ってくる問題や議案があれば、それはどれだけ包んでいるのか、ということが問題になるのです。どれだけ金が入ってくるのか。それによって早くしようとする。金も持たずに訴訟をするなんてとんでもないというようなこと。後の信長政権なんかにコロリといかれてしまうのは、そこらの風通しが悪いというか、何でもが金主義というか。新しい織田政権なんかには絶対に通らないでしょう。そんなことをしたら信長によって命に関わる大変な懲罰を受ける。
ところが今川氏は、要はお上の披露(届出)がないと片が付かないという形式にはなっているけれども、結果的にこの徳政問題もOKになるのは、関口氏経がOKしたから。それによって息子と二人で連署状を出してOKになりますけど、これまでにただ一つ残っているこの連署状では、関口氏経という人物と井伊次郎直虎の関係がわからなかったのです。どういう関係で連署しているのかということが。
関口姓であるから今川の宿老であろう、次郎直虎は「次郎」であるから次郎法師の後身、つまり女が男になったのだということから面白くなってきた話ですけども、これは親子です。これはもちろん資料には残っていませんけど、一番問題なのは徳政を延期させているのを暗黙に了解していたのは氏経である可能性が高いのです。氏経が結局なぜそれをやっているかというと、今代表的に言われているのが瀬戸方久という銭守方。金融ブローカー。侍であって、町人であって、半分入道したような格好をしていて、金貸しをして、武器商人もしている、今でいう総合商社みたいな人物です。本当はみんな彼によって抱き込まれていたのです。だから、関口氏経も「そうか、それでやっておこうか」という程度のもので、それほど難しいことはないのです。そして、氏経が暗黙の了解を与えておいて、氏真に聞こえなければいい。そんなもので、命は取られない。今川家の世間は「すみませんでした」で済む程度のものです。力があればね。
金を蓄えるのはなぜかというと、井伊直虎はたぶん討死しているのですが、父親の氏経は直政のお父さんの彼女を彼女にして、小田原に逃げている。そして、小田原で安穏な一生を送っているのです。つまり、それは今までのお金の備蓄がたくさんあったから命も全て助かるわけです。そしてもう一つは、あれだけ苦労して徳政をOKしてとった、大百姓・その被官人・侍たち、わかりやすくいえば借金をしている人・田畑を取られている人・女房子供を質に取られているような人々は、やっと徳政になったと思ったら、何のことはない。氏経が「瀬戸方久だけは徳政は免除である」と。これも全部お金です。今川氏真の得になればいいのだから、すごい話になるのは、瀬戸方久の変わり身の早さです。パッパッパと変えて、すぐに渡りをつけて、氏真から判物が出ているのですよ。「徳政はお前の方は構わない。除外する」と。それも金で買ったのだけれども、今川はすぐにだめになりますね。すると、今度は徳川家康にパッと身を翻して、家康からも貰っている。それはすごい経営能力のある人物ということになります。
そういう具合にして、今川家の訴訟のスピードは、奏者がいっぱいいて、仲介人がいて、裁判にはものすごく金がかかるわけです。だから、一生懸命内密にプランを立てて、何年もかかって訴えて、やっとOKになったと思ったら、肝心の大金持ちの金貸しは徳政令から除外されている。徳政除外ということは、瀬戸方久に関わっている人の借金は棒引きにはならないということですから、貧乏人はさらに貧乏になる。だから、それだけ苦労した意味を知るためには貴重な資料ですけども、一番大事なところは、資金力が問題になるということです。資金力とパイプがないと。瀬戸方久は太いパイプが家康にもすぐ繋がるし、氏真にも繋がる。
ところが、訴訟代理人になった匂坂直興や小野但馬なんかは、物語の『井伊家伝記』では超悪者になっているけれども、一生懸命な、立派な人というのはおかしいけども、悪逆無道な人物ではありません。小野但馬も貧乏しているから、そういう人が一生懸命運動した挙句の沙汰だったけれども、結局、大きい金貸しは全然損害を受けずに生きていたのです。
だから、何の勝負かというと、結局は人間関係をスムーズに行うための経済力がなかったということになる。経済力があって、瀬戸方久よりも力があれば。瀬戸方久というのは、たまたま銭守方の名前の代表ですけれども、力があれば訴訟をする必要もないですしね。ですから、弱い者が弱い者になってしまった、という結果になっているのです。
それから、賄賂の政治、賄賂が相当物を言っていたということは、歴史研究をする上ではあまり書かれないことです。あるいはわかっている人もいると思いますけども。全部、裏金が必要であったということ。だから、例の徳政の最後のほう、駿府に行って頑張ってくれた匂坂さんは、金が足りないから、「早くこっちに回してくれ、貸してくれ」といっぱい言っています。それはそれだけではなくて、それ以前にもたくさん金を使っているから。
そういう苦労は、平安時代・鎌倉時代から訴訟のためにはそういう世界の仲介人がたくさんいるから、昔からありました。荘園領主の代理人をしているような連中にもいちいち袖の下を出す必要があった。これは、当然の常識としてされていたわけです。その話になってくると、話が大飛びになるけれども、忠臣蔵のもとになる吉良上野介の話も、あれは当時の幕府の慣習として、高家の吉良家には「こういう時にはこれだけのお礼を申し上げる」ということが定まっており、しなければいけないことを江戸家老がしなかったというところから、「非常識な奴だ」として仕返しを受けたということになっていく。ことほどさようにお金の世界であったという、武辺者と言いながら、金の話になりましたけれども、武辺も金で買う場合もあるわけです。
前田利家が若いころに一緒に働いてきた村井又兵衛かな、二人が「お前は今どれだけ金を貯めたのか」「拙者はこれだけ」「俺はこれだけ貯めたぞ」という話をしています。前田利家はなかなか経済的能力があって、彼がその時に言っているのは「これを一つ教えておいてやるけれども、お前も気を付けよ」と。「擦切った奴とは付き合いをするなよ」と。今でいえば、金をちゃんと持っているやつと付き合いをしろよということですね。貧乏人というか、自分の身の回りの世話もちゃんとできないような男は相手にするなということを言っています。ですから、金ですよね。金が大事。これは家康が一番よく知っている。家康はけちと言われたけれども、使うと時には惜しみなく使うために普段から貯めていたのですね。だから、関ヶ原の時にも役に立っているし、豊臣秀次の滅亡の時にも役に立っているし、お金で大分助かるのです。つまり、そういうことであるから、武辺は金の上に立つものであって、何もない者には味方もしてくれないし、金力があれば与力になって助けてくれる。貧乏人の素寒貧では男の一分もたたないという時代です。
今の日本はそういう時代からすればクリーンになったのかもしれないけれど、元来は潤滑油にお金がいるということで、やはりそれは我々の今の慣習にも残っていますよね。お中元やお歳暮もそれだし。これが日常的にもっと大きな力で必要だったのが、戦国時代以前からの訴訟問題。訴訟に関わるときには関係者一同にばら撒く必要があった。今のように訴訟のやり方が一定していません。今は代理人に頼んで、弁護士に頼んでいけば、訴訟の方法が決定していますから。弁護士との間では10万円するところ12万円でして、2万円くらいはお礼にするというのは、常識みたいになっていますね。だから、そういう意味で手柄を立てるのも何もかもお金がないといけないという、あまり面白くない話ですけど、現代にも通じる実際の話です。
いと笑われる。本当に任侠の仁義と一緒で、すらすら言わないと男が下がる。よく似ているところがありますけども、信長の時代にはもうそんなものはありません。出会い頭にやっつけてしまう、そういう形に変わっていったのは鉄砲の伝来もあるし、南蛮文化の影響もある。しかし、やはりここでは主人公にはなっていないけども、中世の形をコロッと変えていった信長なんかの戦闘集団のやり方が大きな影響を与えたのだと思います。
(五)
越前のほうでは、直政や直孝よりも興味のある方は松平忠直でしょうか。忠直は生まれた時から貴種意識が高い。何といっても、結城秀康の息子であり、家康に近い。本来ならば「将軍家になるのは俺のほうである」という意識がある。ただ、彼が一番気が付いていなかったことは、家康・秀忠にとっては、後々の害になる可能性があるという心配の種だったということ。豪放磊落とされている秀康という人は、いわゆる男ぶりはあまり良くなかったけれども、実際の男ぶりは良い人だったので、かなり過激なことを言ったところで本筋のところはわかっていたけれども、家康のような苦労人から見れば、忠直はただのボンボンであるという認識があるわけですね。だから、「こいつが調子に乗ると本元が危なくなる可能性がある」と。秀忠あたりには言い残していたのかもしれないけれど、「場合によっては考えなければいけないぞ」ということは、当然ながら本多正信なんかも入れて話をしていたと思いますよ。なにせやんちゃをするから。そういうところが忠直自身にはわからない。何といっても一門だから潰されることはないという安心感があったと思います。
松平忠直像
大坂の冬の陣で失敗していますね。失敗というか、真田丸にかかったのは井伊直孝の軍勢と加賀の前田利常と越前の忠直。一番大きなのは加賀の前田と越前家、その次に井伊家くらいのものですけども、攻め口にかかったのはこの三家です。記録にも残っていますけど、冬の陣で真田丸の寄せ口に来たときには大変寒くて霧が深かった。それで、あの時代はみんな我先に出ます。我先に出ないと卑怯になる。軍令は抜け駆け法度であるから、勝手に戦をしてはいけない。だけれども、そうかといってじっとしていたら、これは卑怯者・臆病者になる。だから、法度は出ていても、隣の越前や加賀が前へ前へと出て行っているのが、何となくざわざわとしてわかるわけです。そうすると、物語にもありますけど、井伊家の先手は木俣右京と先ほどの河手景隆の孫になる河手良行だった。河手主水の隊は
(六)
先にも言いましたが、加増して調子に乗らせてもいけないし、幕府としてはこのまま放っておこうという考えです。放っておくと、必ずもっと暴虐になっていって自滅するだろうから、その時に処理をしようと。それが、元和九年の改易事件になっていったわけですね。
武辺の話から、武辺というか侍の意地張りというか、そういうことが江戸前期には毎日のようにある。毎日のようにちょっとした口論でどちらかが死んで、片方も両成敗で腹を切らねばならない。尾張徳川家の場合には『紅葉集』という記録があります。「紅葉」というのは血で真っ赤に飛び散ることにかけていますが、刃傷事件ばかり書いた大変貴重な記録があります。それは公開されていますけど、読めば読むほど面白いし、無残というか今の現代が有難いなと思います。のっぴきならないようになって刃傷に及ぶ必要もある、そういう場合もあるのです。言葉の戦いで負けたらもういけない。
例えば、二人きりで誰もいないところで言い合いをして負けても、これはどうもならない。もう一人いて三人になると、AとBが言い合いをして、その結果をCが聞いていて、Aが負けたということが口外されて世間に出ると、Aはもう立場がない、侍の一分が立たないということになる。そうすると、これにはけりをつけなければいけない。ですから、男が男を張るということはまことに窮屈で、気骨の折れることですね。毎日毎日、家に帰って寝るまで、寝ていても油断はできないので。外に出たら大人しくしていてはいけない。普段から大人しい奴は、戦に出ても役に立つかということになる。だから、常に武張った振る舞いをしなければいけないのです。武張った振る舞いをしながら、ちゃんとやっていかなければいけない。これはコツがいるというか、頭が良くないとできない。弱い、お上品なことを言っていては、それは腰抜けということですね。
『葉隠』という本がありますが、侍は一日に七回くらいは大嘘をつけと言っている。張ったりをきかせろ、ということです。だから、張ったりをきかすのはいいけれども、その裏打ちとしては命を張っておかなければいけないということですね。そこが大変ストレスのかかることで、井伊家の場合ですと、大坂夏の陣が終わってから出家している人がたくさんいます。その前に、卑怯未練な振る舞いをして腹を切らされている者もいるし。しかし、ちょっと学があったり、知識のあるような人は、世の中が嫌になりますよね。だから、出家してしまう。このことを「男をやめる」といいます。
私のところの隣が京都の建仁寺ですが、ここの塔頭の開基になった人もいます。それは学識のある人だったということはわかるけれども、侍の世界では役に立たない人ですね。侍の世界というのはどういうことかというと、アホみたいなことの一つには命を懸けるということです。
だから、忠直の場合でも何と言おうと「俺はしたいことをやる」と。そばにいる大事な女が「人がどうやって死んでいくのか見たい」と言えば、「よし、やってやろう」ということになる。「そんなことは可哀そうだからしてはいけない」とは言わない。なぜかというと、「できないのはあなた臆病ものね」ということになる。ですから、刀にかかることを言われたらやらなければいけないのです。
井伊直孝も、毎日刀に寝刃を合わせて行ったといいます。お年寄りの人はご存じかもしれないけど、刀はあのままでは切りにくい。ですから、寝刃を合わせると言って、要は顕微鏡写真で見たら刀の刃を鋸状にするわけです。これは一番わかりやすいのは、サンドペーパー。斜め四五度くらいから刃にサンドペーパーを当てると、寝刃が付きます。そうしておかないと切れない。我々が事故でうっかり手を怪我することは、「切れる」とは言わないのです。「切れる」というのは、相手の血管や骨を切ってしまうことで、そういう刃の力と切れ味がなければいけない。そうするためには、毎日寝刃を合わせておかなければいけない。我々が見る刀は、今や美術刀剣ですから、刀は切るものではないし、残酷なことをするものではなく、鑑賞するものです。ですから、今の刀の研究は概ね、刃文や地金の研究。その作風によってどこの誰のものの作家であるのか、どれほどのできであるのかということを研究するのが、今の美術刀剣の世界ですね。これを実戦に使ってどれだけ切れるか、という世界ではない。
そのためにアメリカの進駐軍から「刀は持ってもいい」と言われたのです。今は、所有するためには登録証というものが必要になります。登録証のない刀は不法所持です。戦前までは登録証はいらなかった。ちょっとした人は、杖の代わりに仕込み杖を持って歩いていました。仕込みというのは座頭市が持っているようなものですね。あれをステッキ代わりにみんな歩いて持っていた。特に壮士とか大陸浪人という人は、かなりそういうものを持って歩いていたものです。中にはピストルみたいなものを入れている場合もあったしね。戦後、都道府県が発行する登録証が必要になって、付いていないと銃砲刀剣類等不法所持となるわけです。そして、今、それがものすごく厳しくなっている。なぜかというと、事件がおこるから、大変厳しくなっていて、それが二ミリ、三ミリ違ってもうるさく言われる。法というのはそう言うもので、それでいいのです。
軍令を守ってじっとしていたけれども、木俣の隊は加賀と越前に負けないように前へ前へ出て行った。それで、朝になって霧が晴れたら目の前が真田丸だった。だから、もう逃げようがないです。鉄砲の釣瓶撃ちにあって三軍ともコテンパンにやられた。玉を逃れるために兵の下に飛び込んで隠れたりして、にっちもさっちも行かなくなった状況で、真田丸の攻撃には大失敗しています。だけれども、あの時にじっとしていた者は臆病者にされるのですね。だから、前に出て撃たれてもいい。怪我をして生き残れば名誉の手柄ですから。前へ前へ出て、堀に転がりこんだって構わない。兎に角、その状態で帰れば名誉の戦いをしたことになるわけです。
法度は法度でやってはいけない。なぜかというと、法度を破ると切腹ものです。それを無視してやったということは、今度は「偉いやつだな」ということになるのです。遵法精神ではないですよ。「大人しくしていてよくやった」ではありません。「お前は何をしていたのか」「抜け駆けは法度でござるが故に、拙者はここにおり申した」と言うと、「お前は馬鹿か。みんな前に出ておるではないか。卑怯者の腰抜けか」ということになる。
この時、井伊家では大問題が起こっている。河手主水が大恥をかいた事件があって、それが夏の陣に続くのですが。越前家のことで言えば、家老のミスもあって冬の陣の時にはあまり赫々とした武勲も挙げられなかったので、家康に「親父に似ないできそこないだ」とボロカスに怒られた。忠直は、この上は夏の陣になった時には、絶対に一番に突出して、めちゃくちゃにやって、挙句の果てには横にいる前田であろうと攻め滅ぼしてやる、ということを言ったらしい。
そして、夏の陣で越前家は寄せ手で一番首を獲るという大手柄を挙げている。たしか、本丸へ乗り込んで、天守閣の中に入ったのも越前家がトップじゃなかったですかね。秀吉の馬印が千畳敷かどこかにひっくり返っていたのを見つけたのも越前家じゃなかったでしょうか。だから、そのような大武功を挙げたにも関わらず、ご存じのように恩賞は「初花の茶入れ」と「落雁のお掛物」。要するに骨董品です。忠直は、これは最初のお愛想のご褒美だと思っていたわけですね。何といっても寄せ手では一番の手柄を立て、一番の首数を取っているのだから、ご加増は受けて当然だし、加増を受けないと家来にも配ることができませんね。家康も秀忠もその時には、「今後、帰った上でもう一度ちゃんと褒美を取らそう」ということを言っていたはずなのに、ただの空手形になってしまった。それで、忠直は面目を失ったわけです。現在の領地より、戦争の後に領地が増えないと増禄する方法はないです。200石の侍が手柄を立てたから、250石にしてやるにしても、ないものはできない。
これが武辺者の男の考え方ですが、「なめているのか」ということです。「こんなことをして何ということをするのか」と。この憤懣というのは本人でないとわからない。彦根の井伊直孝は15万石からいっぺんで5万石加増されて20万石になって、すぐにまた5万石加増されて、忠直の生きている範囲でも10万石くらい上がったでしょうか。これは大変なことですよ。「井伊掃部がどんどん上がって行くのに、俺のほうがきつい働きをしているのに、こんな様では俺も随分なめられたものだな」ということで、あそこからヤケクソが始まります。
いわゆる忠直卿の乱行事件というのが色々あって、記録にものこされているけれども、彼がやったことというのは、彼しかしていないようなことではない。今、記録を読むと、なんと暴虐なことをするのかと思うけれど。例えば、妊婦の腹を割いて経過状況を観察したり、鉄と土か何かで女性を潰してしまったり、ありとあらゆることをやったらしいです。だけど、たまたま忠直の話がクローズアップされて残っているけれど、あの時代、意外と同じようなことをしている連中は多いですね。俗に武辺者といわれる人々、これはみなそういうことをしています。
例えば、みなさん、ご存じないでしょうけども、刀が今も残っているでしょう。長い刀は90パーセント以上は人を斬っています。なぜかというと、自分の指料だから、頼りになるかならないかのテストをしなければいけないのです。当然ですね。自分が刀を注文して斬れるかどうかわからないものを腰に指していてはいけないのです。だから、テスト、試し切りをさせる。あるいは自分がして、十分に納得してから指料にするのです。江戸中期くらいの人はケガレを嫌ってやらないけど、江戸前期の大名や旗本、ちょっとした侍は全部試し切りをする。家光はあまりやり過ぎるので、老臣に怒られて止めたけれども。家光に限らず、当時は忠直なんかも、新身の刀を注文して、できたもので罪人を斬ります。斬るのは当たり前なので、「あんなに斬って、なんという残酷なことかな」と思うのは現代の我々の感覚です。平気でできなければいけないのです。平気で斬るということができないと、いざという時に戦えないでしょう。人を斬り慣れないと、あがってしまうから。冷静に相手を倒すということは斬らなければいけない。どういう斬り方をしたら相手がすぐ死ぬか、自分が切腹せずに済むか、というところから剣術というのは発達するのです。戦国時代には剣術なんていうものはなく、ただ殺すだけです。
武蔵とか柳生とか、剣術というものが生まれたのは江戸時代になってからです。柳生流の中に小手だけ斬る秘術があります。小手だけを斬れば殺さなくても済む。敵によっては殺してはいけない相手には手傷だけ与えておきます。ただし、これは相当な手練の技がないとできないですよね。ですから、石舟斎とか柳生十兵衛とか、尾張の連也斎という人は、柳生流の極意の中にそういう小手の一部だけを斬る秘術を持っているのです。そういうところから剣術というものが発達して、芸術的な腕を持つような人が生まれてきたのです。
だけど、大名はそれはいらない。一対一の戦いの剣術は覚える必要はないので、要は人を斬ることに慣れるということです。100人斬った者と、5人斬ったものが立ち会いをしたら、これは100人斬ったものが勝つに決まっていますよね。なぜかというと、どうしたらいいかもわかっているし、間合いもわかっているし、どういう刃の使い方をすればいいのか、そういうことをわかるには慣れなければいけない。昔、大名の跡継ぎには罪人を斬らせたものです。罪人を何十人もズラッと並べて、好きなだけ斬れといって。そうすると、こういうものか、というのがわかるようになります。だから、鍋島勝茂だったかな、彼の息子は20人くらい並んだ罪人を5人か、6人か、7人斬って「もう止めた」と刀を放り出したという話がある。そういう話は逆に英邁な息子、しっかりしていると父親が誉めたりもします。殺生は慣れればしなくていいということになるので。
ここで言いたいのは、忠直という人がやったことは、あの時代にあの人しかやらない前人未到の悪逆ではないということです。本当は表になっていないだけで、みんなやっています。それができないような男は頭領にはなれないのです。本当の意味の任侠と一緒です。すぐに平気で顔色を変えずに人を殺せなければいけない。平然として、殺すぞという顔を見せたらいけないのですね。「仕物」という言葉がありますが、これは、例えば殿様あたりから「あいつを消せ」と言われた場合に、「承知しました」と言って帰って、平然として相手を斬ってくる。澄ました顔をして、二時間くらいして首を持ってくる。何人か家来のいる中で殺せとは言わないけれど、「どうもあいつは」と批判した時には、さっと席から消えて、話が終わる頃には首を持ってくるというね。そういう具合にして、無残が当たり前です。そうでないと統治できない。誰も言うことを聞いてくれない。だから、二言目には斬られるぞ、と思わせるような君主でないと、みんなやんちゃ坊主だから抑えが効かないのです。そういう中で、彼の場合はそれが外へ出ずに中へ籠ってしまった。その後は大坂の陣のような戦いもなくなったし、エネルギーの発散のしようがなくなってしまって、やや偏った方向に行き過ぎた結果、あのようになったということです。
さりとて、忠直という人だけが配流されて、越前家はわかれて残っているので、完全に無くなったわけではないですね。津山のほうにも残ったし、もちろん福井にも残った。普通の大名なら完全に潰されるけれども、たぶん忠直という人は、ああいう人物だから国中を砦にして、ただ一人残っても戦うであろうという前評判だった。江戸の年寄連中としては、「大人しく城を明け渡すことはすまい。ちょっと一戦にはなるな」という見方だった。その時に、加賀の前田家にも、彦根の井伊家にも出兵の用意をする命令が来ています。その時の着到といいますか、誰と誰が出るのかという書類の記録(「越前攻井伊家軍編成帳」)が今の企画展で展示してあります記録の頭に木俣右京亮という名前が出てきますけれども、彼は大坂の冬の陣で先駆けの功名を挙げた人物で、木俣が彦根の一番家老になっていくわけですけ。
そういう意味では忠直という人は現代の感覚で考えると、大変残酷だけれども、あの時代は普通か、普通よりは少しえげつないかなという程度でした。だから、幕府もだいたいは黙っています。ただ、幕命に従わない、例えば参勤交代をやらないとか、こういうことのほうが問題です。領内で少々やんちゃをしても謀反を起こさなければいいのです。そういう意味で一番問題になったのは幕府に対して従順でなかったということです。参勤の途中で関ヶ原に滞留したまま動かなかったり、病だと言って引き返してみたり、そういうことが度重なるとこれは処罰をしなければいけないということになる。
さて、話は大きく飛びますけど、井伊直政が家康に仕えて北条氏直と甲州の若神子というところで対陣した。百日対陣といいます。実際、戦闘は少なかったですけども、長い睨み合いの末、結局は北条家と徳川家が和睦するということになったのです。その和睦の使いに徳川家の正式な使い(正使)として行ったのが、直政です。これは直政が懐中に密かに持っていた短刀です。無銘ですけど、志津の兼氏です。大志津といって、刀に詳しい人でしたらご存じだと思いますが、志津にも色々あって、一番有名なのが兼氏の初代ですけども、この無銘のものを「大志津」と称します。やはり持っているものが違うな、と私が思ったのは、天下の名刀なのですね。これを懐中にわからないようにして持って行って、和議の交渉に臨みました。もし、この和議が徳川家康の存念の通りにならなかった場合には、自分が責任を取るという覚悟で持って行っているのです。幸いにして北条との和議は成り立ちましたけれども、その時のメモも当方にあります。直政が自分で書いて、相手方と話が合ったら合点を入れて、いちいちチェックをしてある。直政はまだ22歳の時で、これから出世が始まりますけど、これがその時の記念的な短刀です。
普通は黒い部分を茎(なかご)といいますが、茎に銘のあるもの、有名なところでいえば正宗というものは、長いものの在銘は一本もありません。だから、
大志津短刀
・直政懐刀
「正宗」と書いた長い刀は全部嘘ということです。もしかしたら、見つかるかもしれないけれども、正宗の在銘作品は短刀しかない。志津の兼氏も「兼氏候」でわかっているものは、たぶん一・二本しかない。あとは全部無銘の極め。それはどこでわかるかというと、これでは地金はわからないけれど、刃文はわかりますね。刀を一・二年くらいした方ならわかると思いますけど、大変激しい出来です。要は正宗系というか、相州系の身のものです。兼氏というのは大和から起こって美濃に移住した刀鍛冶で、正宗の影響を受けた刀鍛冶ということになっていますけどね。
やはり有名な武将というか、ある程度の人は刀をちゃんと見たということですね。駄刀は持たない。直政もそうですけど、直孝もものすごく刀が好き。刀のコレクターというか。普通ではありません。刀が好きということは、ひっくり返せば人を斬るのが好きだったということです。当然、刀を手に入れれば絶対に試します。人によっては「二つ胴切断」とか「三つ胴切断」といった試し銘を入れる。「三つ胴切断」というのは胴を三つ重ねて下までバタンと斬ったということです。今、愛刀家の間ではそういうものの本物の切り付けが入っているものは喜ばれます。当然、喜ばれるものは高く売れる、売れたら偽物ができる。切断銘、一般にわからない人は裁断銘ともいいますが、これが入っているから正しいと思ってはいけない。偽物が八割くらいあります。そうすると、100万くらいの刀が200万になります。そして、金象嵌銘が入ったりする。けれど、慣れてくると、その金象嵌銘の良し悪しもわかりますけど、一般の人だとわかりにくい。だから、そういう偽物が多い。試し銘ですね。やはり普通の人はあまり入れたがりませんよね。戦国の名残のある人はやりたいけど、江戸時代の中期以降の人たちは、この刀で何人斬ったというのは入れたくない。
そういうことで、もう一つ話をしていきましょう。最初、直虎のところで次郎法師の話が出ましたけど、次郎法師が使ったとされている革張りの軍配。軍配団扇ですね。この形が珍しいのは、たいてい軍配は木製か革です。これは鉄の枠に革を貼って、日月を表していますけども、鉄だから武器にもなります。武田信玄と上杉謙信伝説の一騎打ちの時、信玄が持っているのも軍配ですね。でも、あの軍配の形が一般的で、こういう革張りの手が込んだものは少ない。これがいわゆる指揮具で、たいていこの中に方角が書いてあったり、時間を書いてあったりして、戦争の時に今日は良い日か悪い日かということが早見表のように見ることができるようになっている。「この日のこの時間にはこうしてはいけない」と、半分占いみたいなもので軍は行動していた。今みたいに、天気予報で行動するのではなくて、縁起の良し悪しが一番大事なので、日取りと時取りが悪いと負け戦になるので、まずそれをクリアしてから出軍するのです。城を出る時や出立の時は必ず、日取り時取りを見てから出る。それを早く見るための道具が軍配団扇です。たいていは丸の中に甲乙丙丁とかわけのわからない占いみたいなものがいっぱい書いてある。昔の人、それを見る人は軍師だといいました。いわゆる兵法家はそれを見ればわかったのですね。そのための道具です。
ほかには赤備えの代表的な一般的な家来の鎧、企画展に展示されているもので200~300石くらいですが、石高はあまり関係ありません。彦根鎧というのは赤鎧です。赤鎧というのは「井伊の赤備え」からきている鎧ですが、全部真っ赤です。全部真っ赤で、天衝は全て前立に用いる。これが合印です。つまり、合印というのは、味方である印です。槍にも槍印をつけて、鎧の袖にも印をつけて、兜も天衝の前立を着けますが、これは戦いが白兵戦になると折れますよね。だけど、折れたら折れたまま残します。なぜかというと、それは名誉の印だから。格好悪いから作り直そうということはしないです。連隊旗と一緒です。よく戦った連隊旗は縁しか残っていない。中は弾が貫いて布がなくなっているので、あるのは縁だけです。逆に言えば連隊旗はそういう状態になっていないと、その連隊は仕事をしてないということになる。ですから、よく戦った隊は何もない。つまり、武功を上げるということは、そこに怪我の跡があってもいいということです。怪我のあとがあってこそそれが証明されます。
だから、さっきの刀の場合でも、今は美術刀剣ですから刃こぼれがあれば当然マイナスの条件になるけれど、昔の武士の家に伝わる刀で「これはこの戦の印で、これだけ刃こぼれがあって、先祖が手柄を立てた」と言えば、それは大事な証拠物件になります。ですから、そういった刀は普通は使わずに残します。よく槍なんかに、樋が彫ってあって朱が入れてあるのは、もうそういった由緒は忘れられていますけれども、たいていは由緒物か神社に奉納した物です。そういうものは使わないので朱を入れます。使うものは入ってないけれども、そういう暗黙の作法があったけれども、今はほとんど消えていっている。書いてあったものは残るけれど、書いてないものは消えていく。
直孝の鎧と比べますと、家来の鎧の頬当ては顎までで鼻は防御していないでしょう。我々は顎しかないので顎面あるいは半面といいますけど、でも、実際に戦う場合にはこのようなもののほうが戦いやすい。だから、熊本の細川越中守忠興の系統である越中具足(越中流)の頬当てはほとんどが半分(半頬)です。第一、兵糧、ご飯を食べる時に頬当てを外さないとそのままでは食べられない。ということは、いつ襲われるかわからない時に呑気なことはしてられないから、頬当ては半分の方が実用的ということです。ところが現在は、飾るときに鼻があって髭があった方が立派なので、現在の価格とすると鼻がないとその分だけ安いのです。「なんだ、顎面か」と言われてしまう。だから、現在の評価のしかたや甲冑の見方というのは昔とは全く違いますね。やっぱり、さっきの胴丸みたいに、びっしりと縅毛があるようなもののほうが金銭的価値は高いわけです。
ところが、戦国から江戸前期、例えば企画展で展示されている本多孫太郎の鎧だって何の飾り気もない。だけども、実用的にはあれほど良いものはない。桶側胴といって、桶みたいにただの鉄板をつなぎ合わせただけで、重いカチカチのものです。ところが、これがあの時代には一番良いのです。それによって、実戦時代の彼の着領であったということが了解できるわけです。本多家の家老のあの鎧が絢爛豪華であれば、これは嘘ということです。あれでないといけない。
(七)
一般的に鎧の話でも、刀でも、今の話でもわかることはお答えしますので、何か質問があれば言ってください。歴史上の慣習というか、剣の話とか、今の常識が非常識であるという話はたくさんあります。
質問: 井伊家の系図に関係してお尋ねします。25年前ですけども、結城秀康のことを調べようと彦根へ行きましたところ、彦根市立図書館で彦根史談会の久保田弥一郎さんという方にお会いしました。当時、70歳くらいだったかと思いますが、僕が結城秀康のことをお聞きしたいので福井県から来ましたと申しましたら、久保田さんがおっしゃるには「福井県の人は彦根を目の敵にしている」というような言い方をされた。僕は姉の婿さんが彦根の生まれなので、むしろ彦根に親近感を感じている人間なので、久保田さんはなぜそんなことを言われるのだろうと。僕が質問したわけでもないのに、福井県の人は彦根のことを嫌っているという言い方をされたので、「これは何かあるな」と思って調べたのですけども。そこで、先ほどの井伊の系図についてお尋ねしたいのは、『彦根市史』に2代藩主で13年間藩主であった…。
井伊: 二代藩主直継の事ですね。そこが大問題です。実は、直継というのが私の所の直接の先祖になりますけども、直孝が弟です。直継が本来、井伊を継ぐべき立場だったのですが、先ほど言いましたように、大変紳士だった。ジェントルマンだったのですが、あの時代、ジェントルマンではだめです。本当は忠直みたいな人でないといけないのです。だから、主流を外されそこから分かれていった。
これには結城秀康は彦根城で殺されたという伝説があります。久保田さんも言ったでしょう?天秤櫓の前の前に橋がありますね。たいてい彦根城がテレビで紹介される時、天守閣の次くらいに紹介される。長浜城の櫓を移築したという天秤櫓があります。そこに橋が架かっています。下は空堀になって、鐘の丸というところですけども、あれは廊下橋だった。廊下橋ということで屋根があって、外から中が見えないようになっていた。そこで結城秀康は毒殺されたという説があります。幕末まではその血を吐いた痕まであったと言う。
今は彦根の人も誰も知らないですけど、天秤櫓のより本丸に近づいた方に、墓がある。実際にありますが、みんなそれを知らない。どこからできた伝説かはわかりませんが、秀康は、家康は実際の息子かどうかわからないと思っていたようですけど、豊臣をひいきにするので目の上のたんこぶです。ですから、もし秀康が平気で豊臣方の与力、味方をしたら大変面倒なことになります。だから、できれば除きたい。除きたいけれど、しかし、殺せとは言えないでしょう。今の暴力団の話や首を斬ってきた侍の話ではないけれど、困ったなと思った時にさっとその意を理解してやるのが良い家来です。直孝がそれをやらせたけれど、直継はできなかったということ。そういう話をしているわけです。それによって秀康を殺したから、怨んでいるという話です。これは真否不詳の伝説となってます。しかし、私はもっと違う原因に、幕末の福井の春嶽と大老の直弼の問題が大きいと思っています。
質問: お聞きしたいのは、13年間二代藩主であった直継が、『彦根市史』では欄外になっていて、二代藩主は弟の直孝になっているのは。
井伊: それは、今まで間違いだったのです。間違っているから、私は長いこと『井伊軍志』の中でも書いていた。なぜかというと、60日の藩主は歴代の中に数えて、13年間も藩主の座にいた者を除外するというのは、江戸の御用学者のやり方であると言って、最近はちゃんと書くようになってきました。
ただ、市の博物館の方ともよく話をして言うのですが、これは言い訳ですよ。一つは彦根城の中で直継が二代であったと書いていくことになると、多くの経費がかかるそうです。あらゆるものを変えていかなければいけないから。だから、わかっていても、その関係でなかなかスムーズにいかないという。
このあいだ出た『新修彦根市史』に僕も協力しましたが、これには一応、二代となっています。三代が直孝です。だから、本当は誰を彦根藩祖にするかというのが問題です。本当の意味で政治的業績の結果から考えると、直継です。もっと大らかに考えると当然直政ですね。しかし、実質の彦根藩政の大本を築いていったのは三代の直孝です。となると、直孝が藩祖でもいいわけです。
今、おっしゃる通り、13年間も藩主にいてそれを訂正しないというのは、やはり与板藩と彦根藩は同じ井伊家だけれども、嫡流はこっち、庶流はあっちという内心の確執が江戸時代からあって、そこで彦根は除外してきたのです。だから、家康公が直継に別家を興させたという解釈をしているわけです。だから、彦根に13年いたのにこの間の説明は立たないですけどね。
質問: 『彦根市史』の中にこういう文章が書いてあります。
「直孝の言を(家康の)いかなる仰せなりとも、兄にて候ものを退け、父が家継がんことを望むところに候はずと言上。家康の命を受けた兄の直継はこれにこたえて固疾のもの彦根城主たるべからず。固辞せられるときは即下にして父の跡を絶やすというものなり。こう熟慮せよ。」
これはものすごく大きな問題を『彦根市史』は堂々と市史の中に書いています。僕は他県人からみても疑問に思うのですね。なぜ、こんな扱いが起こっているのかと。
井伊: さっきも言いましたが、(直継は)大人しいからだめなのです。乱国の将というものは、相手が手を出しかけたら先にやらなければいけない。よく言えば、それができない人だから。躊躇したらいけない。あの時代の侍は何かことがあった時に、果断な決断ができなければいけない。直孝はできるけれど、直継はできない。直継は決して病気ではなかった。その証拠に70歳余りまで長生きしていますから、病弱でもなんでもない。ただ、お坊ちゃまだから、パンパンパンっという行動ができない。
もう一つ、これは文章を飾られたものですけど、直孝は辞退したわけではないですよ。表向きそう言うものです。シェークスピアの劇じゃないけれども、「私は止めておく」とそう言うようになっているだけであって、形式的にそう言わなければ兄の家を乗っ取るようになるので、そういう表現になっているだけ。直孝はそういうことは一つも言っていません。「大変ラッキーだった」と書いている手紙が残っています。だから、それはあくまでも後世の歴史的な潤色、レトリックです。一応はそういうことにしておかないと、その後、朱子学がうるさくなってきたでしょう。直孝が兄の家を簒奪したとなる。それはのちのちまで問題になりますよ。
水戸光圀がそうでしょう。光圀は長男を四国の方にやって、お互いにやり取りをしていますね。そういう因縁があるのでお返しをしている。直孝の場合も、直孝一代で兄の方に家督は返すと直孝の息子はみていました。ところが、直孝にはそういった気配は全くなくて、どんどん直孝の家のことを大事にしていこうとしているから、ということで、実は息子が父親を批判している。これは道に反するということでね。だから、「やはり兄君の系統のことをもう少し考えなければいけない」ということがあった。それから、直孝と息子の仲が悪くなって、そのあと百済寺という寺に追いやられて、たぶん腹を切らされているのだと思います。ものすごい無念を感じさせる辞世が残っています。
ですから、福井の人に嫌われているというのは、大老の問題です。ただ、伝説の彦根との関係では、結城秀康は井伊直孝に毒を盛られて、廊下橋かどうかはわからないけど、再起不能になったということを書いているものはあります。
久保田弥一郎さんは史談会の会長で、釣道具屋さんのご主人で素人さんでしたが、私たちが25、6歳の頃の史談会は色々とやっていました。何かほかに、言ってください。
質問: スライドの中で松平忠直公に不穏な動きがあるということで、越前攻の資料が出ていましたけれども、常備している軍も当然あると思いますが、その編成帳は突発的なもので臨時に軍隊の数を増やしたものですか。
井伊: あれはそのまま常備、本軍です。常備ではなく本隊です。なぜあの着到の表を作ったかというと、何かあった時に加賀に後れを取ってはいけないのです。だから、早く手回しをして、即行動できるようにしていました。ですから、あれは臨時にそのための軍隊を編成したわけではありません。
質問: それと、今回、松平忠直の編成帳ですが、ほかの時の軍編成帳はありますか。
井伊: どうでしょうか。加賀の方ではどうですかね。お互いに遅れてはいけないので、幕閣の重役の話がぽろっと漏れたら、正式に発令される以前にすぐに用意しなければいけません。だから、その気配を察したら、一日も早く用意をして、一日も早く福井へ着かなければいけない。だから、その用意は、例えば井伊家は幕府の藩屏の羨望の家だから、一番ライバル視していいたのは加賀の前田です。前田家のほうが福井へは動きやすいので。ですから、野球で言ったら二軍をあちらで、ということはありません。
たいていああいったものは廃棄処分されるので残っているのが珍しいです。
司会者: それでは時間もまいりましたようですので、この辺で今回のお話は終了させていただきます。井伊先生いろいろ興味深いお話を賜りました。井伊先生、そしてご静聴の皆様ありがとうございました。
平成29年 秋
特別展「越前戦国演義 -戦雲の果てに-」内講演
井伊直政・直虎 そして忠直卿 -武辺徒然草- より掲載