井 伊 美 術 館
当館は日本唯一の甲冑武具・史料考証専門の美術館です。
平成29年度大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」の主人公直虎とされた人物、徳川四天王の筆頭井伊直政の直系後裔が運営しています。歴史と武具の本格派が集う美術館です。
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※当館展示の刀剣類等は銃刀法に遵法し、全て正真の刀剣登録証が添付されている事を確認済みです。
キッシンジャー氏の警句
元・米国務長官ヘンリー・キッシンジャー氏のことばが12月27日付読売新聞の「迫る」というインタビュー記事の中にのせられている。インターネットにおけるツイッターが民主主義を大きく変えようとしているという記者氏の質問に対するキッシンジャー氏の発言は、随分重要な意味と示唆に富んでいる。諸賢の一覧にそえたい。
「…インターネットは人類の歴史を大きく変えてしまった…ボタン一押しで多くの情報を得られるようになったが、情報を記憶する必要がなくなった。記憶しなければ、人は考えなくなる。その結果、知識を受容する能力が著しく損なわれ、何もかもが感情に左右されるようになり、物事を近視眼的にしか見られなくなってしまった。この問題を研究し、対策を考える必要がある」
井伊次郎(直虎)新史料公表(一部)における
関係識者のコメントについて
昨年12月15日当館館長・井伊達夫発表による井伊直虎に係る新史料発見の件が我国の主要メディアによって一斉に報道されました。取材はそれに先立つ12月10日、及び同13日の2回都合6時間余に及ぶ濃いものでしたが、報道の反響は大きく、迷った挙句の記者会見でしたが、開催してよかったと満足しました。
ただ新聞、テレビ共、報道時間、スペースに制約があり、十分の記述報道という点では、皆さん存分の思いではなかったかも知れません。しかし、大変努力されたことが窺われ、改年の後となりましたが、遅ればせながらありがたく感謝の意を表したいと存じます。
さてその節、感想をよせられた関係識者のコメントについて答えておく必要のものもあるやに見えましたので、簡単ながら以下に書き上げてみたいと存じます。
(29.1.4.)
更新情報
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小和田氏の評言について追記しました 29.2.17
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小和田氏のブログについてコメントしました 29.1.25
時節因縁―仏性現前
百丈懐海のことばに
欲知仏性義 当観時節因縁
時節若至 其理自彰
(仏性ノ義ヲ知ラント欲スレバ、マサニ時節因縁ヲ観ズベシ
時節モシ至ラバ、ソノ理オノズカラアキラカナリ)
今回の井伊次郎直虎に係る新史実の発見も全て時節因縁。こうなるべき時がきて、こうなった。運命の序列、みほとけの御差配なのだ。この史料は50年も前からもっていた。これまではその時節が到来しなかったから仏はそのままにさせておかれたのである。
この時期をねらって、史料発表をしたのではないかと、うがったみかたをする向きもあるやに聞くが、そのような企画性ははじめから全くない。そんな策士なら、ボランティアに近い美術館などしてはいないだろう。もう少しマシな暮らしをしている筈だ。実は発表についても随分迷ったことは記者会見でも他のところにも書いた。
道元はこの懐海の最終句を『正法眼蔵―仏性』で、「仏性眼前」と書き変えた。時節もし至らばといふはすでに時節いたれり、何の疑著すべきところあらん―というのである。「仏性眼前」これが今回発表の時節到来を覚知するキイワードとなった。今なのだ!すべて御仏の御差配あるところ、仏は現前したのである。幻の青年武将井伊次郎直虎の霊もって瞑すべしである。この時節がなければ、彼は永劫に世に識られることはなかったかも知れない。
まえがきにかえて
このたびの新史料発表に際して新聞紙上で意見を徴された人々の評言に対し、井伊としての考えを以下に記してみた。評者の意見の概ねは常識的な御返辞、可もなく不可もないのが大半であったが、磯田道史氏のお話が歴史家として最も真当なものかと思われた。記事上の制約もあって、省略や尻切れトンボになっているのも当然であるから、活字になった部分だけでの判断はお互いに不備不足が現れるものである。しかし、その中でも同氏のものは部分を切りとっても、そこに生きた歴史を理解した者でしか表現できないものがあった。
次に夏目琢史氏の評もどちらかといえば前向きで、もう少し他の部分を公表すれば、おそらく吃驚されるであろう自信と期待がある。
さて、小和田哲男氏であるが、すんなりと認められないのは当然の第一挙であろう。念のためにいうのだが、私は氏とはこれまで何等の交渉もない。間柄としては個人的には全く無縁で、そこには何の意趣も含むところも何物も存在しない。真白な関係である。強いて微塵の係りを過去に拡大鏡をもって求むれば、もう十年もむかし、氏の弟子と称した女性が井伊家家老三浦家の史料をみせて下さい、研究論文を書きたいので、と私のもとにたずねて来たことがあった。それに些かの協力をした記憶がある程度である。私は氏のしごとの中で、その歴史著述の仕様によって、学者だけの片苦しく狭域な「歴史論考」を一般素人の世界に近づけ、親しみやすいものにさま変えを施した、そのたくみをした功労者と考えている。更なる今後の活躍を期待するものである。
以上それはそれ、以下はこれはこれであるから、大袈裟にいえば学問上の問題、たとえば採用史料の選択と取扱い、錯誤等に関しては腹蔵なく呈示し、真実追求のための討究を続けたいと思う。
追記:
井伊次郎史料発見に係って宮崎の歴史研究家の某氏から関口氏経について御教示をという連絡をうけた。あちらの新聞報道(28.12.15 毎日新聞14板社会)のファックスが送られて来た。そこに史料の真実性を首肯する母利教授(京都女子大)のコメントに続いて小和田哲男氏が次のように述べているのが目に入った。内容が当地の毎日新聞とは異ったコメントである。ということはそのコメントに対する私の考えを正しく述べておく必要が生じたことになる。以下に小和田氏の同紙上における評言をのせ、私の考えを記しておきたい。
小和田哲男氏の評言
『井伊次郎』が直虎になったとは書かれていない。女性が家督を継いだという史実をなかったことにしようとする意図とも読み取れる。
井伊達夫の考え方
たしかに井伊次郎が直虎となったとは書かれていない。この件については既に「井伊達夫の考え」の中に答えているので省略する。
「女性(この場合次郎法師すなわち直虎をさしている)が家督をついだという史実をなかったことにしようとする意図とも読みとれる」
そもそも次郎法師が直虎に変身したという確実な論証はされていない。推論を史実と一方的に断定したにすぎない。また次郎法師が井伊家の家督をついだという事実はない。確実な証拠もない。もしそれが実正ならば同時代に生きた直政の母(宗徳)や直盛の妻(新野左馬助の姉)、また左馬助の七人の娘たちが認識している筈である。勿論系譜にも載せられなければならない。女性の井伊家相続などは存在しなかった。従って「なかったことにする」等という士道に反する妬息な作為は為す必要もない。前記の人々は左様な卑しいことはしない。直政の母や新野の女たちは、女であっても「為さざるところあり」という女傑ばかりであったから素性も根性もちがう。冥界でこのような評言を耳にしたら何と仰せあるだろうか。
(29.2.17)
【写真説明】 『譜牒餘録』所載連署状本紙
小和田哲男氏のブログ
―「直虎は男だった?」説をめぐって(2016.12.30)―
における問題点について
―バトンタッチなどははじめから存在しなかった―
上記表題の中で、小和田氏は記者会見時(16.12.10)に取材、発表(16.12.15)された新聞各紙各メディア等に対するコメントを要約し、自身のブログで種々記されている。その主なものについて「識者評言に対する井伊達夫の考え」のところで既にのべたので省略するとして、小和田氏説の問題部分について気付いた所を指摘、解説しておこうと存じます。
1.家臣の家の伝承であるから信憑性が低い
伝承ではなく、家臣最高位にあった木俣氏の初、二代、及び直政自身の話(岡本宣就聞き覚え)や直政の母の直話が含まれていることは、いまだ小和田氏は御存知ない筈である。一概に信憑性が低いというのはいささか安易な一方的判断と思われるが、これも小和田氏としては仕方のないことであろう。実に信用できる記録であり、内容は井伊家だけに限らず広範です。
同じ二次史料といっても、氏が史料的に依拠されている『井伊家伝記』の方が、近年の研究によっても史実性が低いことは関係史学者の多くが承知していることである。(因に木俣の二代清左衛門守安は大坂冬の陣で軍令に反し寄手惣軍に魁け真田丸に突撃、真田丸の塀に取りつき指物や全身に銃創を受けたが、生還し天下に勇名を馳せた人物で、その時使用の鳥毛の棒の馬印〔先代守勝より伝受、関ケ原以来のもの〕が現存する。)
2. ・仮名の件や二人次郎のことは既にのべた
・「新野氏の系図にはそのようなことは書かれていない」
上記の系図なるものの典拠を御教えいただきたいと思います。新野左馬之助が関口氏の出であることは、明確に記され、ある程度兄弟姉妹関係もあきらかにされつつあります。
・「井伊直政へのバトンタッチが説明できない」
たぶんこのことは「井伊家伝記」の記述によって次郎法師が、直政の世話をして、家康臣僚としての直政の成功、つまり井伊家継嗣のバトンタッチをしたという意味をふまえての説明と思われる。しかし、次郎法師(直虎とされている)がそのような手配りをしたというのは後代の伝説とみるべきで、井伊家最古の系図(岡本宣就〔井伊直政、直継、直孝三代の軍師・直政やその母に親しかった人物〕自筆寛永系図)にはそのような記述は一切なく、このたび発見の新史料には誰が家康への対面を世話したのかが、明確に記されてある。それは他ならぬ直政の母(宗徳)と松下一族である。このことの一部は既にどこかで書いたが改めて記しておきたい。
尚、青年武将井伊次郎(直虎)は井伊谷がおさまらないので名目的鎮将として今川末期政権の氏真から派遣された関口氏経の息子である。井伊家が待望して迎え入れた「井伊氏」ではない。勿論、地元や井伊所縁の人々にとって井伊次郎(直虎)は親しみあるものではなかった。だから今川が亡びたら瞬時に消えている。その後は不明だが、父の氏経(三休と号す)は小田原北条氏のもとで老後をおくっていることは新史料にある。(序でにいえば、この氏経の老後に添っていたのは、井伊直親の関係した女性、つまり直政の母にとっては許しがたき女である。)とに角、この頃の井伊氏は断絶していたと考えなければならない。直政は逃亡生活中であるが、そのルートも新史料には明記されてある。もともとバトンタッチ等は後代の創作とみるべきで、ありはしなかったのである。真のバトンタッチを果たしたのは直政の実母である。
・「次郎法師が一時的ではあれ井伊谷を支配していたことは次郎法師の印判状(龍潭寺文書)の存在によってあきらか…」
上記文書の中には今川氏の徳政不認の誓約があるが、これは井伊家累代の菩提寺である龍潭寺の領域内に於てのみ通用する一項であって、井伊谷全域の支配をしていたという証拠にはならないし、またその論証もされていない。この文書は先祖の行っていたと同様に龍潭寺領の寄進を一種追認のかたちで次郎法師が行ったものである。しかし、この文書を正真としてみるならば、晩年をこの寺の一隅にすごした次郎法師やその母公(直盛の妻―新野左馬助姉)の待遇は実に不遇であったとしか思えない。哀れを催さずにはおられない。寺域全体を昔の次郎法師からいわばプレゼントされているのに、どうしてこのような扱いになるのか。宛所が龍潭寺ではなく、住持の南渓になっているのはなぜだろう。南渓が死んだらどうなるのか。またこのような黒印は必ずしも公印とは断言できないでしょう。いろいろ不審がやまない。この次郎法師の南渓宛寄進状は奇妙である。いずれ別項を設けて検討したい。ともかくいえることは、現今の物語で直虎とされているところの次郎法師の、かりに政権というものが存在していたとしてもその政治基盤は極めて脆弱であったと断言できる。
以上、小和田氏の説明に対し、問題点を少し記してみた。
(29.1.25)
【写真説明】 新発見史料中別冊分の目次と内容の一部
中味は聞き書きに限っていない。細い記録の写しも厖大な量にのぼる。
掲出の目次は関ケ原合戦時の事柄に属するもので、書中の「一乱の刻…」は九州の黒田如水から直政に宛てた現地報告状、黒田長政以下三人の連署状は開戦直前、東軍の主幹井伊直政、本多忠勝にあてた書状で、いずれも俗にいう一次史料である現物が現存する。なお三人の連署状は『譜牒餘録』所載。
小和田哲男氏(静岡大学名誉教授)
「読売新聞」
伝聞の二次史料なので、内容を検証する必要がある。戦国期は女性が家督をつぐ例が他にもあり、直虎が女性の可能性は十分ある。
井伊達夫の考え
まず、直虎が男性だったとは立場上すなおに肯定されはしないだろう。当然である。しかし、直虎が女性だった可能性は十分にある―ということはその逆もあるふくみをもたせた発言で、賢明なコメントでしょう。
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「京都新聞」
今後の研究の一つの糸口。聞き書きという二次史料で直虎が女性であるとの否定するものではない。関口氏経の子が井伊次郎を名乗ったとする井伊家史料はない。井伊家総領の仮名(通称)は代々『次郎』なので同時期に別人が名乗れないはず。
「静岡新聞」
面白い史料かもしれないが、聞き書きという二次史料で『次郎直虎』という表記は出てこない。直虎が女性である事を否定するものではない。
「中日新聞」
井伊家家臣の記録に、関口の子が井伊次郎を名乗ったと出て来たのは興味深いが、直虎と断定出来ず、次郎法師と井伊次郎の二人が同時に存在したことも疑問。現段階では、直虎が女性という方が蓋然性が高いと思うが、ドラマ化で注目されてさらに史料が発見され、実像に迫ることができれば。
「毎日新聞」
今後の研究の一つの糸口。井伊次郎が直虎となったとは書かれていない。
井伊達夫の考え
今回発見呈示した井伊次郎が男性であったということは、このたびはわずか関係三項目しか発表していないが今後前後の記録を紹介してゆく。真実であることが判明するだろう。伝え聞きの二次史料という安易な目からはやがてその記述の重要性によって鱗がおとされることになろう。二次史料といっても等級の高低、質の上下がある。もう少し細かく発表解析すればこの史料の尋常でないことは理解される筈である。「女性であることを否定・・・」は意味が一切わからない。井伊次郎は新野左馬助の甥であったと明記されているからである。「井伊次郎は総領の仮名云々」は、まちがっている。「次郎」というのは代々が名乗っていた絶対的通称ではない。江戸期につくられた『井伊家伝記』という物語本がいっているだけである。また当時の井伊谷一帯に次郎法師・井伊次郎以外、「次郎」は名のれず、他にいなかった筈というのはおかしい。次郎の通称は比較的多いが太郎、左衛門太郎、弥太郎、九郎などいろいろである。次郎さんは他に何人もいたということだ。三郎、四郎さんのように。
関口氏経の子が井伊次郎を名のったという井伊家史料はない―というのは何処の井伊家史料をさしておられるのか。この時代の井伊家史料の殆どははばかりながら私は全部知っている。そして、このたびの新史料も見事な井伊家史料の核なのである。藩記録の重要なものは殿様の井伊公が所持していたわけではなく、重要史料の全部は「国家老木俣氏」の管するものであった。中でもその最重要な文書類の原本の殆どは私が所蔵している。このことは彦根城博物館の代表的学芸員渡辺恒一氏(彦根城博物館学芸課主任)にお訊ねになられるとよろしい。しかし、今後の研究のひとつの糸口―というのは当然ながら仰せの如くである。
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「日経新聞」
跡取を示す惣領の2文字を次郎法師に付けた史料がある。次郎は井伊家の跡取りの名前であり、同時期に次郎を名乗る男性がいたとはかんがえられない。
井伊達夫の考え
次郎法師に「惣領」の二文字をつけた史料云々であるが、史料というのは江戸中期に成立した本格的二次史料『井伊家伝記』のことと思われる。小和田氏なら存分の検討を要する「二次史料」である。『井伊家伝記』を史料にするとまちがいが多くなる。
「惣領」というのは『井伊家伝記』がいっているだけのもので、公証性はない。また武士社会における惣領というのは常識的には男子でなければならない。女子惣領は創作と考えるが至当である。再説するが「次郎」は井伊氏跡取りの絶対的な通称ではない。また井伊直政以後通称に次郎の名を用いていないことは注目すべきである。これは左程由緒があったわけではないことを証明している。
同時に次郎二人がいたとは考えられない―小和田氏にとっては考えられないかもしれないが、そのことは本欄他紙のところでのべた通りである。
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「共同通信」
『次郎直虎』という表記は出てこない。直虎が女性である事を否定するものではない。
井伊達夫の考え
直虎が女性であることを否定するものではない―小和田氏は次郎直虎を次郎法師に検証もなく、安易に結びつけ史実的に断定された。これは個人のあくまで推測の範囲におさえておくべきで、その拠りどころは共に「次郎」であったということだけである。この点は大石泰史氏も『井伊氏サバイバル五〇〇年 (星海社新書)』(※注)でいっている。極めて妥当、当然の判断である。
また新史料に直虎の実名表記のないところをいって井伊次郎だけでは直虎とはいえないといっておられるが、一般的な史料記録(井伊家文書を含め)では家中の士などは全て通称であって実名表記はしない。江戸期の藩主の場合は「直政公」「直孝様」など藩治藩主を時代を限定するため記録表題に実名表記することがあるが、一般的にはたとえば清左衛門(木俣)、与右衛門(三浦)、次部右衛門(宇津木)である。今回発見史料中の項目に於て、その箇所だけ「井伊次郎直虎」などとあったら、もうそれだけで文書記録全体の均衡が破れ、怪しいことになる。
尚、実名忌諱の問題があるが、本件説明には該当しないこと、当然お判りと思います。
現段階では直虎が女性という通説…蓋然性云々
直虎が女性だと史実的に断定した言説をその著書やTVではじめられたのは他でもない小和田氏である。「通説」の生みの親は小和田氏自身であって、近年のことがらである。何度もいうがそこには悪意もない代り史的考証のつみ重ねもない。だからその通説はほんとの識者には認証されてはいない筈だ。もしそのことに思いを至さず、右へならえをしている学者の人がいるとすれば、勉強不足で考えない人か、単なるお追従者にすぎないと思う。
どだいあの狭い井伊谷でみんなに知られている次郎法師が直虎に変身などする必要もないし、甲斐もない。むかしの東映ではやった、幼年の私もよろこんでみた勧善懲悪一辺倒の時代劇もやらなかったはなしです。戦国は現代の如き甘い時代ではないのです。しかし、「直虎女性」を史的に断定していた小和田氏が、蓋然性ということばを持ち出したのはあきらかに持論における後退であるが、これは氏が当り前の判断はできる方であるということで当然のバックである。当方も同慶の至り、救われた思いです。
※注
『井伊氏サバイバル500年』(大石泰史,2016)
「第6章 井伊直虎とは何者か?
次郎法師登場の背景」
”ここからは想像の域を出ないが、次郎法師登場の背景を探ってみよう。
祖山は龍潭寺で、位牌・過去帳等から「次郎」が中世井伊氏の家督も使用した仮名・通称であることを認識した。そのため永禄八年の寄進状を書いた「次郎法師」は当主に近い人物と考えた。しかし、中興開山である直盛は同三年に、後嗣直親も同五年に死没している。彼らよりも没年が遅い人物を探す必要がある。
そうしたとき、龍潭寺内に残されている位牌等に、天正十年に亡くなった人物がいた。法名は「妙雲院殿月船祐円大姉」だが、没年は直盛・直親以降の人物であることは間違いない。「大姉」とあるので女性である。しかし、その位牌以外に確認できないのであるならば、次郎法師は妙雲院殿だった。祖山はこう考えたのではないだろうか。
その傍証となるかもしれないが、祖山は次郎法師=直盛息女=妙雲院殿と認識はしているものの、次郎法師=直虎、もしくは直盛息女=直虎、という表現はまったくしていない。つまり、女性であることは認識していても。男性名である「直虎」を名乗ったとはどこにも記載がないのだ.。このことから、直虎が次郎法師もしくは直盛息女と指摘したのは、後世の研究者たちであったとすることができる
週刊文春
「週刊文春」
予想外に複雑な三段論法に報道陣は困惑しどよめくばかり、報道陣が概略を把握するまでに2時間半を要した。
井伊達夫の考え
予想外に複雑な三段論法・・・話の内容重要性を理解してもらうのに、井伊家の当時の内情からはじめて、細鎖な人間関係に及び次郎法師が井伊次郎直虎でないところに達するまで、たしかに2時間半は十分に演説させていただいた。根本は簡単なこと。その時は小和田氏の名は出さなかったが、氏が、次郎同名の近所に住む二人を史料的検証や整合性のないまま一方的に合体宣布させたところからはじまった壮大なる歴史の勘違いである。実際の会見時間は前後2回都合6時間余でした。
当日立会人
母利美和氏(京都女子大学教授)
「日本経済新聞」
戦乱で井伊家の男が相次出亡くなり今川氏真が家来の関口氏経の息子を送り込み領地を治めさせた。関口氏真と直虎が連名で徳政令を出したのかが親子なら説明がつく。
「読売新聞」
筆跡から信憑性が高い。出家した人(次郎法師)は本名を名乗らないので、次郎直虎と署名するはずがなく、井伊次郎は男性。
「毎日新聞」
直虎の正体は、今川家から派遣された男性だったと考えられ興味深い。直虎は関口氏経との連名で領地に徳政令を出しているが父が子を補佐したという見方も成り立つ。
「産経新聞」
史料が極めて少ない直虎の研究に新たな進展を示すこととなる発見。
「中日新聞」
傍証と照らし合わせても、直虎を男と示す決定的な史料。最近の研究で、井伊家伝記には史実と違う部分があることも分かってきており、史実を再整理すべきだ。
井伊達夫の考え
母利氏とは井伊家研究について彦根城博物館学芸員であった頃からの古い付き合いである。史料を見せたのはごく一部であったが、一覧するなり「ああ、これは決定的だ」と呻いた。この一声は歴史、特に古文書を専門に扱って来た学者なら本能的にくる閃めきである。これのない人はいくら専門的に学んだとしても「ただ学校のできる生徒」にすぎない。氏には独特の鋭い勘が具っている。私が氏を学問以前に大きく評価したいのはここのところである。ありがたいことだが、当家の古文書の質の高さは、既に新修彦根市史その他関係彦根諸史料において証明済みである故、おのずとその研究の内容は充実している筈だから多言は要しない。
二人のつき合いは永いが、そこには決して狎れ合いはない。特に「井伊直弼」をめぐっては考えの相違も色々ある。しかし、それはそうであって然りである。苟も学をするもの、先師、先輩、学閥の関係で「親分」には「御意」「ぎょい」とばかりいって伺候するようでは、最早そこに「真の学問」は育たない。しかしいま実際にそんな理想をいってみたところで、それはただの理想にすぎないこともよくわかっている。ただ我等の間柄においては左様なことはない。母利氏はただ正直に、何等発現の背景を顧慮することなく以上のごとく発言したのである。極めて正当な評価であり、歴史の真実は再び生き返ったと思う。
NHK
「週刊文春」
直虎=男性の説は把握していました。このタイミングは認知度アップで大喜びです。
井伊達夫の考え
NHKの制作局第二製作センター・ドラマ番組部チーフプロデューサー岡本幸江氏は、大河ドラマが決定した時、当館を挨拶がてら訪問された。その時は、まだ今回のように史的実際が判明していなかったし、また、文書史料も極めて少い状態であるので、思いっきり想像の翼をひろげて下さい、とお話した覚えがある。その後今回の史料を発見して、その旨メールでお知らせしたら丁重な御返事が来た。「把握していました」というのはその間の事情を物語っている。ドラマはあく迄ドラマである。そんな野暮はいわない。「三つの真実よりひとつの美しい嘘」という名言もある。嘘つまり夢だ。先般、「直虎」に係る2度目のヒストリア取材にも協力させてもらった。ドラマの発展には大きく期待したい。
磯田道史氏(国際日本文化センター准教授)
「中日新聞」
井伊家伝記は江戸時代中期の成立だが、新史料は聞き書きされた時期が古く、井伊の筆頭家老の記録であり貴重。武田軍に占領された井伊谷の様子など記述が詳しく興味深い。ただし、次郎法師が女性であることは動かない。彼女が直虎と名乗ったかどうかが問題になりはじめた。新史料の井伊次郎が井伊直虎と名乗った記述はない。井伊家を継いだなら、その後どこに行ったのかがわからないなどの問題もある。と関係系図を掘り起こす調査の必要性を指摘。
井伊達夫の考え
今回の史料発表についての識者のコメントの中で、中日新聞紙上に於て最も均衡のとれた、正しい意見をのべられたのはこの方だけといっても過言ではない。
テレビのニュースでの発言も同様である。官僚的でない全うな歴史を視る能力をそなえた人が、この日本には、まだちゃんといるということは、まことに心強い。
(29.1.4)
渡辺恒一氏(彦根城博物館学芸課主任)
「朝日新聞」
見つかった史料は全体を見ないと評価できない。とやや困惑気味。
井伊達夫の考え
渡辺氏は副館長と共に別の用件(彦根城博物館来館の件「お知らせ」に掲載)があって1月7日来館された。渡辺氏とはお互いに長いつき合いがあって、報道された後も電話で話をし、当日も再び氏の発言について訂正された。つまり、渡辺氏の表現が記者にうまく伝わっていないところから話が部分的に報道された結果、氏の本意でない表現になってしまった。困惑など全くしていないし、評価できないなどとはいっていないとの話であった。報道された自己の評言とされたものに対し驚愕した。むしろおそろしいと感じたとのこと。これは氏の本音であろう。
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「中日新聞」
検討すべき史料が出て来たという印象。新史料も従来の史料もよく読んだうえで、史実を検証していくべきだろう。
井伊達夫の考え
これは渡辺氏の妥当な感想として受けとれる。彦根城博物館には今回発表と同筆者である木俣守貞筆写の「木俣記録」(井伊所蔵命名)という井伊家草創期を含む彦根藩初期史料の厖大な記録の全副本を預けている。まともに勉強していれば今回発見の史料記録が極めて信憑性の高いものであることは一見して了知される筈である。氏はもっと勉強する時間がほしいですといっていた。学芸員も幹部になると「会議」の連続らしい。氏は同館の実質No.1といってよい人物で私は高く買っている。
野田浩子氏(彦根城博物館学芸員)
「日経新聞」
今回の史料が信頼できるものなのか筆跡などの精査が必要。否定的。
井伊達夫の考え
渡辺氏同様、否定的発言はしていません。記事になったあの写真の部分だけではとは申しましたが―とのこと。当方も同類の史料は同館への信頼で複写させ、預託しているのだから、一見して筆跡の察知ぐらいはできていないといけないよねとは話しておいた。
野田君の上席である渡辺さんの話だが、とかく辣腕の記者ほど双方対立の構図を作りたがる傾向があるそうである。そうすれば読者も興味一入になるから、それはそうであろう。しかし、それが渡辺さんのいう報道のおそろしいところである。
夏目啄史氏(一橋大学附属図書館 助教)
「中日新聞」
井伊家伝記も今回の記録も二次史料。細部まで調べる必要がある。
井伊達夫の考え
この記事もごく簡単にカットされているのかも知れないが、どれもこれも一緒にしてしまう二次史料発言は答える側にとって大変気楽なものです。