井伊直弼自筆艶書(村山たか宛)1名もたかき
今宵の月は
みちながら君しをらねハ
事かけて見ゆ
当時の風儀からみるとかなり強烈な艶書というべきもので、直弼の女性にかかわる恋の手紙としては新発見、唯一のもの。柳王舎主人という雅号からその時期は天保十三年過ぎ、たか女と別れて間もない頃のものと思われる。(天保十三年冬には側室静江ができる。)
まだ完全に別れきらない状況で、習いごとの費用の面倒もみていたようだが、恋歌を贈りどうも淋しくてはじまらないと嘆いている。
持病の頭痛がひどく、文章中の二字は一応「困苦」と読んだが「田苦(臀苦・・・痔の隠語)」と解釈した方が文章の前後からは自然である。直弼は痔にも往生していた。茶席に座ることも大変苦痛だったようである。
いろいろ持病に苦しみながらも、女だから慎んで生きるように心配するなど大変気を利かせ、さらには名月によせて彼女を慕う歌の中に「たか」の名を読みこんでいる。なお未練十分の直弼の心情が切々と伝わる書状。
2へつづく | 井伊直弼自筆艶書(村山たか宛)2かなり周到に準備された内容だが、文字は大変癖字の、本人も書いているように乱筆である。若い頃の独特の「痩せた」文字。直弼は晩年に向かうほど、「肥えた」文字へと変化していく。
時の風習や、特に直弼の立場身分柄から考えて宛先はわざと明らかにされていない。しかしかなりなじんだ間柄で、別れて間もない状況、そして近況の伝え方、歌に女の名をよみこんで恋心を訴えるなど、受取人はたか女以外に考えられない。たか女への手紙は今のところ残存しない。その上艶書なので、直弼の性格を知る上でこの上ない貴重資料といえる。
(寄託調査品) | 井伊直安二字書井伊直安(井伊直弼四男、越後与板藩最後の藩主)が七才で書いたという閑山の二文字。
おそらく父直弼の膝下において手習いの仕上げのような形で書いたと思われ数点存する。
因みにこの年直弼は大老となって幕末志士の断罪にふみこむ。幕末大動乱の幕が切っておとされる直前に息子が「閑山」とはまこと皮肉である。
朱文で直安と彫った小印が捺されているが、字体の意匠は父直弼だろうか。父子の情愛から歴史の浪漫を感じさせる資料。直安は文画に長けた人だが、七才とは思えぬ雄渾な筆致である。
(寄託調査品) |
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