井 伊 美 術 館
当館は日本唯一の甲冑武具・史料考証専門の美術館です。
平成29年度大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」の主人公直虎とされた人物、徳川四天王の筆頭井伊直政の直系後裔が運営しています。歴史と武具の本格派が集う美術館です。
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※当館展示の刀剣類等は銃刀法に遵法し、全て正真の刀剣登録証が添付されている事を確認済みです。
第一章 稚きころ
—参—
時に村から離れ、母について彦根へ行くのは楽しみだった。
時間をみつけて、時には母を強制的にひっぱって図書館へ行く。本を読むというのはタテマエで、ただヨロイを眺めることだけが目的である。上から圧力をかけられて、頭を圧しつぶされたような感じの兜、双つの籠手はだらりと前へ垂らされて威厳がない。頬当も猪首の兜鉢の奥に呑みこまれて鼻先と髭と口しか見えない。しかし、これがいいのである。半時間程も飽きずに眺める。時には一時間近くにもなることがある。そして満腹した童が食器とお膳から離れるようにウインドウから身を離す。廊下を歩く跫音やしわぶき、町を流す豆腐屋のラッパがそのときはじめて蘇える。体の中が爽やかである。しばらくは元気で暮らせるような気がする。このあと、中学生になって彦根に再帰し、高校を卒業するまで、図書館の赤具足との係りはずっと続くことになる。ある程度大人になるまで、このヨロイは私の心の友であった。そしてさらにずっと後にも縁が続くが、それはそのときに誌そう。
現今、井伊家の甲胃刀剣類が観覧を望む人は、彦根城博物館か私のところ(井伊美術館)へ来てもらえばいい。簡単に多くのものを見ることができる。私の中学生の頃まではそんな便利はなかった。これは当時彦根に限ったことではなく、日本全国、地方はどこもそうであった。地域の歴史専門の美術館など多くはなかったのである。
その頃、井伊家の甲冑武具類は彦根の井伊家において管理されていた。つまり同家の私物として秘蔵されていたのである。井伊家では、彦根が「町」であった時代より市制になってからも、史談会などの要請があれば、甲冑刀剣はじめ伝家の宝物類を貸与していた。歴史の特別展、彦根開創三百年展――、そういった記念展覧会への出品である。当然ながらそのような貴重展は毎年まいねん行われたわけではない。回数は極めて希少であり、出品物もまた多くはなかった。お寺の秘仏の公開のようなもので、好事の者にとっては、わずかのチャンスを逃せば、もう暫くはみることが叶わない。
京橋口の旧景(昭和30年代末)
一般的には一種飢餓状態の文化財公開の状況の中で、実は井伊家は秘蔵の甲冑刀剣類を希望者にのみ特別に観覧させていたのである。勿論、公開の宣伝など一切しない。知る人ぞ知るである。しかしこれはまことに有難いことであった。
彦根の湖畔、松原に彦根井伊家の別邸がある。俗にお浜御殿といったが、正しくは「千松館」といい、ここが井伊氏の居邸である。いかにも大藩大名の別邸らしい宏壮な敷地には幾棟もの蔵がある。井伊家はその一部に甲冑や刀剣、古文書などを陳列し、一般に観覧させていた。公開という程の正規の事業規模では勿論ない。希望があれば見せましょうという善意のボランティアにちかい。だからいつも展示館である蔵の戸は締められ、鍵がかかっている。拝観希望者があると中年の女性が応対に出、カギをあけて内部を見せてくれる。この女性が当時の市長(故・井伊直愛氏―直弼曾孫)夫人で―そのことを知ったのはずっと後のことであるが―、駄菓子を買う程の安い観覧料である。私がはじめてこの重厚な、それでいて質素な最良の武具美術館に行ったのは中学二年生位の時だったと思うが、井伊夫人はわずか一人の、それも中学の坊主の来館に、厭な顔ひとつせず、
「―どうぞ、ゆっくり」
というと、表口で私が出てくるのを待っておられた。余計な動作は何もない。監察、押しつけも、催促―一切ない。私の物心ついて最初の、最高にすぐれた応対のひとつだと、近頃思い出すたびに考える。
その後、井伊家伝来の古美術品類は彦根城天秤櫓に「井伊美術館」として公開されるようになるのだが、ここの管理者のAという男が、古美術の知識も何もないのに妙に権威ぶるつまらぬ男で、私はこの男の間違いだらけのいい加減な説明を、何度が面白半分に聞いた。子供心にも胡散臭さを感じとっていたのだろう。つまらぬことだが、気になるむきもあろうから、一、二を記しておこう。
井伊直孝の甲冑の重量。十六貫(六十キロ)は優にある―と自慢した。重さが自慢のタネになるといこと自体、イナカの象徴だが、それをわがことのように胸反らし、鼻孔をふくらませてうそぶく。この男の先祖は甲州系の侍で、そのかみの一族には有名な者もいたのだが、まるで先祖のツラ汚しである。そういえば幕末の天誅組征伐の時、持参した先祖伝来の甲冑を、敵の急襲にあって放り出したままに逃げた侍に同じ家名の者がいる。
実は直孝の甲冑は六十キロもない。先年、私が彦根城博物館で実測した重量は20K弱である。勿論、当時でさえ、そんなに重くない筈だということ位はわかっていた。クリモノでの彦根鎧の実触感を土台にした直勘である。
次に兜の眉庇の上にある横皴である。専門的には「見上げの皺」という。着装時に威厳を与え、威嚇感をあらわすために眉形(打眉)と共に兜の前面に施される装飾である。
この見上げの皺についてオッサンは
「―どや、井伊さんの兜には眉根のとこに、ほれ(それ)三本のシワがあるやろ。これは井伊さんだけに赦された武功のシルシや。家康さんが特別に与えはったんや。他の大名のカブトには、ない!おぼえとくとええ」
まるで噴飯ものの御高説である。兜の頭の頂辺から垂れ下らせた白い毛(いわゆる〝唐の頭"といわれるヤクの毛)も、これは井伊の殿さんだけに限られた飾りである、他の大名や侍には絶対に許されなかった。大したもんや―と感心して言っていた。
現今でも、地方の美術館で解説などしている人にこのタイプの人が少なからずいる。たしか井伊直中が愛重していたと記憶するが、長曽根虎徹の刀がある。調べればすぐにわかることだが、造りこみの頑丈な、やや品格に欠ける刀身に何やら大袈裟な文言の彫刻のあるギラギラの刀である。本当は尾崎助隆あたりの作刀であろう。少し刀の勉強をしてくると、すぐに偽銘とわかる良心的な偽物であるが、その頃の私は「真物(ホンモノ)」と思っていた。
「―これ程ええ(良い)コテツはない。日本でこのコテツの右に出るコテツはないといわれてる。さすが井伊家やな」
武家屋敷(旧牧野家)-昭和40年代前半・著者撮影-
後年(昭和四十五年―一九七〇)、彦根藩の朱具足と井伊家の軍制の小著を出そうと準備していたとき、「井伊美術館」は、まだこのオッサンが管理していた。井伊直政の具足写真が是非撮りたいので、その旨頼みに行ったら、
「―ただ撮りたいっちゅうだけではあかんな。…ちゃんとな、ウチの方へ、ほれ、挨拶のしようがあるやろ」
男の意中は十分に分かっている。写真のことは、その場で諦めた。ただ壮気だけで、昂然と眉をあげて生きるしかない若僧である。辞を卑(ひく)くしてモノゴトを頼むことさえ、上手に出来なかったし、しようともしなかった。このオトコは、井伊家のことは全部オレが切り廻しているンだ―というような顔をしていた(むろん、そんな資格や権威は少しもなかったのであるが)。大袈裟にいえば、このような徒輩を〝獅子心中の蟲"というのであろう。
また美術館には常時女性用の甲冑が飾られていた。成人男子のものよりかなり小振りの美麗なヨロイで、形式的には「腹巻」といわれる。胴の引合わせが背面にある古制のヨロイで、当世具足より製作数がはるかに少ないので江戸時代のものでも貴重視されている。
この腹巻は大老井伊直弼の娘弥千代が讃岐高松の松平家に嫁入りに際し、愛娘のために直弼が調進させたと伝ええられている(最近、井伊家伝来文書の読み解き進んだ結果、この腹巻は青蓮院所用の可能性が出て来た。青蓮院は第十代藩主直禔の側室であったから製作時期が大分古くなる)
美術館のある天秤櫓は城内随一の要害といわれた鐘の丸に対峙するように、西面して設けられている。石垣の上に左右に振り分けられたように設けられた櫓が、あたかも天秤にかけられたふりわけ荷のようにみえるところから名がおこった。均整の美は城内屈指といえる。
足軽組屋敷 (写真上に同じ)
天秤櫓は鐘の丸とは人工の谷とも空濠ともいえる深い城内道を隔てて構えられている。鐘の丸との連繋は一本の橋でとっているのだが、橋と天秤櫓の門口がつながる真上に挟間があってそこにガラスの窓がはめられている。
城山に登る時、天秤櫓に至るこの橋の上で、私は必ず挟間を仰ぎ見た。そこにはいつもガラス窓越しに「弥千代姫」の豪麗な鎧が窺えたからである。挟間越しだから鎧の全貌など望むべくもない。兜の一部、面部の一部、それぞれのごく一部が挟間の立格子にスライスされた状態で視界に入る。いつ見てもいつも同じ按配である。弥千代姫の鎧の背後には井伊直孝の具足の後背部少しと兜の白熊の毛、大天衝の一部も見える。
当時、入館料がいくらであったか、もう記憶がないが、子供の私のとっては安くない金額であった。気楽に、やたらには入館できないヨロイ好きの児童にとって、この場所、アングルは片鱗とはいえ、旧主家の赤鎧を心安く拝する唯一無二の場所であった。聖地であった。
挟間のガラス窓には雨天の日以外、いつも西陽が強く射す。暑熱の夏の陽射しの強さは説明はいるまい。
ふつう、ヨロイの威糸の色目は、白日に曝したままだと二年もすれば褪せる。天秤櫓の弥千代姫は結果的には数十年同じ位置に西面したままにされていた。こうなると威糸だけではない。籠手や臑当の塗色まで白っぽく褪色してしまう。
弥千代姫は無残に色あせていた。特に陽のよくあたる佩楯、臑当の色の衰えが甚だしかった。所蔵者の井伊さんはそんなことに頓着なかったのだろう。その位置はついに更えられることはなかった。勿体ないことであった。