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井伊直弼

井伊直弼自筆艶書

村山たか宛

井伊直弼自筆艶書

名もたかき

今宵の月はみちながら

君しをらねハ

事かけて見ゆ

 

当時の風儀からみるとかなり強烈な艶書というべきもので、直弼の女性にかかわる恋の手紙としては新発見、唯一のものです。柳王舎主人という雅号からその時期は天保十三年過ぎ、たか女と別れて間もない頃のものと思われます(天保十三年冬には側室静江ができます)。まだ完全に別れきらない状況で、習いごとの費用の面倒もみていたようですが、恋歌を贈りどうも淋しくてはじまらないと嘆いています。

 

持病の頭痛がひどく、文章中の二字は一応「困苦」と読みましたが「田苦(臀苦・・・痔の隠語)」と解釈した方が文章の前後からは自然です。直弼は痔にも往生していました。茶席に座ることも大変苦痛だったようです。

 

いろいろ持病に苦しみながらも、女だから慎んで生きるように心配するなど大変気を利かせ、さらには名月によせて彼女を慕う歌の中に「たか」の名を読みこんでいます。なお未練十分の直弼の心情が切々と伝わる書状です。

 

かなり周到に準備された内容ですが、文字は大変癖字の、本人も書いているように乱筆です。若い頃の独特の「痩せた」文字です。直弼は晩年に向かうほど、「肥えた」文字へと変化していきます。

京都新聞社会面より
平成24年2月12日

祖父直弼、孫直忠

埋木舎の柳をめぐる詠草

井伊直弼は部屋住時代にすごした埋木舎に自ら柳を手植し、大切に育てました。直弼が柳木を最も愛賞したことはその別号を「柳王舎(やぎわのや)」としたことでも知られます。

直弼がその柳を根分けして新しい人に与えたときに詠んだのが、この歌です。

 おのれかいとめつる 柳 云々

 

いとせめて 恋しきときも なくさめよ

むすふちきりの かかる柳を  無根水(直弼)
 

この埋木舎の柳は直弼没後も無事存在し、明治になってから直孫の直忠が訪ねて観柳し、詠んだ歌
 

庭前柳

 

我いまた うまれぬさきに おちかうえし

庭の柳はいろそひにけり   直忠

直弼の歌は果たして誰に与えたのか。愛人の村山たかか、はたまた、長野主膳か。いろいろ想像できます。

直忠の方は当時埋木舎を賜って偲んでいた大久保家に与えたものと推定されます。

いずれにせよ埋木舎の柳をめぐる祖父直弼と孫直忠の運命的な詠草だと思われます。

直弼

直忠

村山たか自筆

村山たか自筆

法華経普門品 (寄託調査品)

直弼側室里和江戸招きの願状

直弼側室里和江戸招きの願状

井伊直弼絶筆

井伊直弼絶筆

開国の元勲とされてきた井伊直弼が桜田に倒れる数日前に書いた最後の自筆長文書状。本書は安政七年(万延元年)二月二十五日に書かれた。内容は国家老三浦内膳正猷(まさみち)宛の江戸城本丸普請に係る長文の指示文書で、内容の濃いものである。直弼の手紙は極めて用意周到綿密なのが通例であるが、本状は珍しく不用意かつ乱文で、直弼文書中最難読の一つ。青色の特別な料紙が用いられている。 尚、三浦内膳の実名を一部史書で「実好(さねよし)」などと誤って伝えていますが、、系譜には記されておらず、「正猷」が正しいのです。 写真は冒頭部分(井伊家蔵)

井伊直弼遺物分配帳

井伊直弼遺物分配帳

桜田事件の後、直弼の近臣たちに分配した諸品書。かたみわけ帳。

鈴木源蔵「極秘探索日記」

鈴木源蔵「極秘探索日記」

彦根藩七十人歩行(かち)の身分で若き日の井伊直弼の伽助約をつとめた鈴木源蔵がのちに京都や西国情勢探索(密偵)に出た時の秘録。

公用方秘録(木俣本)

公用方秘録(木俣本)

*公用方秘録については別頁を設けています。

井伊直弼、 子息直憲に与へし石鏃

井伊直弼、 子息直憲に与へし石鏃

直弼が江戸との往還で信州を通った際に偶然見つけたのか、持ち帰って嫡子直憲に与えた古代の石鏃。直憲がその晩年(明治三十年)に父・直弼の遺物であると記した書付が残っている。小さいものだが、親子の情愛をしみじみと感じさせる好遺品。直憲は直弼のあとを継いで彦根藩主となった。

井伊直弼筆 茶の真意を詠んだ歌

井伊直弼筆 茶の真意を詠んだ歌

柳王舎無根水 茶をたしなむ人 世に多しといへとも 茶をよく喫するもの 又すくなし とにかくに こころのちりを まつはきて のむへかりけり 宇治のつみ草

井伊直弼肖像画 (井伊直安筆)

井伊直弼肖像画 (井伊直安筆)

與板藩最後の藩主井伊直安が父直弼を描いたもの。直安は文化人としての素質を直弼から色濃く受け継いでいた。直安は養嗣子として與板藩主となり、維新戦争で官軍として軍功をあげた。

井伊昌子(直弼正室)

井伊昌子(直弼正室)

直弼の正妻昌子は丹波亀山(現亀岡)五万石松平紀伊守信豪の次女(初名多喜→貞→昌子)で弘化3年(1846)直弼のもとへ輿入れした。昌子算えで12歳、実際は11才という幼な婚で、この時直弼はすでに32才だった。この結婚は将軍家からの養女による結婚話を打ちこわすための、いわば急拵え。先行既成事実を楯とした井伊家の強行な結婚政策、政略結婚だった。藩世子である直弼もこの結婚話には一切介入出来ず、内心不満が大いにあったが、その為かどうかこの二人に子供は生まれず、結婚14年後、直弼は桜田門に斃れることとなる。昌子はそれから25年後、明治18年(1885)51才の生涯を閉じた。  孤独の中で、しかし強く生きたであろう勝気そうな感じがその風貌から窺える。 この写真は井伊直憲(直弼嗣子)就封時の古写真と共に井伊コレクション中より発見。平成20年3月上旬、毎日新聞・読売新聞他各社によって報道された。

井伊直憲写真

井伊直憲写真

維新前の珍しい束帯像。

井伊直弼 達磨自画讃

井伊直弼 達磨自画讃

すみにごるあとこそみえね谷河の その水上にわけのほりては 澍露軒画讃(印)

井伊直弼 二重円相図讃

井伊直弼 二重円相図讃

万法帰一 万法 無帰一 柳王舎主人 井伊直弼の筆になる書画に用いられる号名で最も尊重されるものは「澍露軒」である。「柳王舎」これは「やぎわのや」と読みますが、これの所用例は残存遺筆中に最も少ないもの。直弼の代表的な自画讃二例を紹介する。

井伊直弼 居相素振刀

井伊直弼 居相素振刀

(約3.5kg) 直弼がいまだ若く、鉄三郎と称して埋木舎に雌伏していた頃、朝夕に素振りをして身心鍛錬に励んだ素振刀。一日三百回、激しい気合と共に素振りをくり返したといわれている。直弼は性格的に一人芸が好きで、居相も彼が好んだ道のひとつ。

桜田門外の変 井伊家供頭  日下部三郎右衛門の佩刀 (無銘大小揃)

桜田門外の変 井伊家供頭 日下部三郎右衛門の佩刀 (無銘大小揃)

幕末の大老井伊直弼が万延元年三月三日(1860年)上己の節句の賀儀のため登城中、桜田門外において水戸薩摩の浪士によって襲撃され殺害された。「桜田門外の変」として史上著名な大規模テロ事件だが、この時井伊家の供頭をつとめた日下部三郎右衛門令立が身につけていた大小の刀が発見された。季節はずれの大雪のため供侍は柄袋や鍔覆い、鞘革など刀を完全に防護して出立したため応戦できず、悲惨な状況となったことは周知の事実。日下部の両刀は井伊家独特の鞘革に柄袋などが現存(柄袋には刀疵)した貴重なものである。日下三郎右衛門は水戸側に最初に襲撃(即死)された藩の上士。ちなみに後をついだ養子が明治に至って日本の書聖と仰がれた日下部鳴鶴である。

桜田門外の変 井伊家供頭  日下部三郎右衛門の佩刀 (無銘大小揃)

桜田門外の変 井伊家供頭 日下部三郎右衛門の佩刀 (無銘大小揃)

井伊直弼所用 柳図棗

井伊直弼所用 柳図棗

やわらかな早春の風に応える柳枝を描いて直弼の意匠が冴える。

自然斉 湖東焼 蓋置

自然斉 湖東焼 蓋置

井伊直弼所用 自然斉 湖東焼 蓋置 関東大震災の燃熱にも耐え、廃滅しなかった強い生命力をもった名品。

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