井 伊 美 術 館
当館は日本唯一の甲冑武具・史料考証専門の美術館です。
平成29年度大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」の主人公直虎とされた人物、徳川四天王の筆頭井伊直政の直系後裔が運営しています。歴史と武具の本格派が集う美術館です。
*当サイトにおけるすべての写真・文章等の著作権・版権は井伊美術館に属します。コピーなどの無断複製は著作権法上での例外を除き禁じられています。本サイトのコンテンツを代行業者などの第三者に依頼して複製することは、たとえ個人や家庭内での利用であっても著作権法上認められていません。
※当館展示の刀剣類等は銃刀法に遵法し、全て正真の刀剣登録証が添付されている事を確認済みです。
鎧兜にまつわる誤った権威伝承、架構の伝来等、長い年月の間に訂正不能となっているものがあります。これらの歴史ロマンの中に隠された真実にふみこみ、思い切ったメスを振るいます。足がけ5年の歳月を経て漸く刊行の運びとなりました。著者ならではの記念的著書です。
目次
はじめに/巻頭随論
第一章 伝来甲冑の真実
はじめに/織田信長の甲冑/秀吉、家康の甲冑/
【コラム】当世具足/豊富秀次の甲冑/豊臣秀頼の甲冑/
真田幸村の甲冑/森蘭丸の甲冑/上杉謙信の甲冑…他
第二章 相場を中心にした甲冑入門
甲冑刀剣界の現状と今後/相場から甲冑写真をみる/鎧兜に日本人の魂を探る–現実的な話の前説–/
伝統文化の再認/収集と相場の偏重/胴丸や腹巻の相場/古式胴甲の見直し…他
第三章 遊甲春秋記
日本甲冑武具研究保存会/藤木鞍斎翁/山上八郎先人/伊藤一郎氏/八木原太郎作翁/
山田紫光翁/徳川敏公/長谷川武(冑宗)氏/名和弓雄さん…他
第四章 山上八郎書簡
日本甲冑界の大先達 山上八郎、若き日の手紙/大正十一年八月七日/大正十一年八月十三日/
大正十一年八月十三日/大正十一年九月三日/大正十一年九月四日/大正十一年九月八日…他
甲冑における昔からの伝来由緒、比較的新しい有名武将等の着用伝説、これらの真実について考証し、思い切ったメスを入れて歴史ロマンの裏面に迫ります。甲冑研究五十年をこえる知見の集結、成果の一端です。御期待下さい。
新発見資料・甲冑研究の先駆者山上八郎、若き日の書簡集も収載致します。
一部内容はホームページでも公開しています
南北朝の筋兜を膝に抱き、大満悦の山田紫光翁
「甲界都鄙紳士録」より抜粋
○笹間良彦氏
このシリーズで、笹間良彦氏をとりあげなくては片手落ちになるであろう。氏は甲冑研究という極めて特殊な分野に対する興味を一般普遍化したという点では、断然第一の功労者というべきだろう。これは確かなことである。それ以前、甲冑武具という、いまだまともな学問の対象としては敬遠されていた――というよりこの分野は真正面からの登攀(とうはん)を容易に許さない未踏の大連峰であったから、誰も挑戦征覇をなし得なかった世界である。この処女地をはじめて踏査し、砕石の破片までを集めて体系的に分析研究をした先駆的偉業者に山上八郎氏がいる。たとえば笹間氏は山上氏の通りすぎて久しい道を丹念にもう一度歩き直し既に雑草で覆いつくされた、ところによっては道筋も絶えたような荒蕪(こうぶ)の地表を蔓かづら、茨草いちいち切り拓き、一般の人々も容易に往来できるように安全な山歩きのための案内の看板を設置したような人である。
山に馴れた人のなかには、ここは少し旧道とは異なる山路をガイドしている、間違っているのじゃないか、と異和感を持つこともあろうが、要は大道につながっておれば良いと思う。余り細かいことはいわずに汗を流して登ることである。私の評に対し、笹間氏はそこまでの手間仕事はしていないという意見をもつ人もいるかも知れない。しかし数多くのこの世界に関する著書を世に送ったガイド的な手柄は仮に先人の敷衍(ふえん)の範囲であったとしても、オリジナル性が余りなかったとしても、迷える者に対する立派な道案内人であったことは誰も異議あるまい。
私は元来、自分から積極的に外部に働きかけるという趣味がない。殆ど出不精で居所に胡坐をかいたまま半世紀以上をすごしてきた。だから笹間氏とも密接なお付き合いをしたことがないが、二、三、思い出噺がある。
昭和四十五年、井伊家の赤備えに関する小冊を出版(『彦根藩朱具足と井伊家の軍制』)したことがある。促成栽培のきわめて粗笨であったが、これはなぜか当時のメディアに意外に大きく取りあげられ、方々から注文をもらった。甲冑界の大先達山上八郎氏からの申込みが最も印象にのこっているが、その中に笹間氏もあった。以後私と笹間氏は文通するようになった。多くは私の質問に対し笹間氏が答えてくれるという内容が多かったと思う。井伊家の歴史や武具に関する問合わせを得たこともあるが、そんなにしばしばのことではなかった。師事という点では文学上で何人か仰いでいる人がいるが、この世界にはない。しかし教示をうけることがあれば分類上「それは先生」ということになる。氏の筆蹟は几帳面に整っているが、やや斜体で終筆を屈曲させる癖があった。島崎藤村の字に似ていた。以前本欄に紹介した山田紫光氏のごとく書をやった人の文字ではないが雑な書き方ではなかった。
ある地方の甲冑展の図録に、『信玄袋形』と表記した兜が出ていて、これは兜巾形の誤りではないかと氏にただしたことがある。現在甲冑をやる人は兜巾の変わり兜の名くらい誰でも知っている。甲冑の常識教育(これにも氏の著書の力があずかっている)が行き届いているが、その頃はまだ一般化していなかった。氏からは直にその通りですという旨の長文の返事をもらったが嬉しかった。この兜は奇縁があって私の持ち物となり、氏の『日本の名兜』(昭和四十七年)に掲載されたが、今は手許にない。その後いかなる転変を経て、今は誰方が所蔵しているのだろう。
その内遊びに来て下さいと何度もいわれ、家人同伴で一度お邪魔したことがある。熱海の網代の山の上の御宅で、こじんまりながら、瀟洒(しょうしゃ)な佇まいの山荘であった。記憶が正しければ細川某氏旧宅とのことで垢抜けている理由がわかった。
玄関入ったところに六十二間の筋兜が置かれていた。どこにでもある筋兜であるが、前立の角本の装置がちょうど浅間神社や寒川神社所蔵の武田家ゆかりの兜と同様の祓立と並び角本を併用した珍しい形をしていた。それが生ぶのものであったか、後代に仕立て直されたものであったか、多分後者であったろうが、たしかな記憶がない。部屋の間取りなどもう全く思い出せないが、座敷に黒韋胸萌黄白威の胴丸が飾られていたのははっきり覚えている。惜しいことに押付板と肩上を失っていた。いま『日本甲冑名品集』(雄山閣、昭和四十三年、笹間良彦・飯田稔編著)の説明をみると、そのことには触れていないが、草摺が一間分後補であるという。飾ってあるものを、そのまま距離をおいて見ただけなので、それには全く気付かなかったが、破損がひどくても当時としては立派な憧れの対象であった。
奥様の手料理で結構な晩餐まで饗された。ビールの勢いも手伝って
「この胴丸、もし手離される時は是非僕にも声をかけて下さい」
厚かましくもいったものであった。三十歳にまだ二つ三つ年が足らなかったあの頃の若さが羨ましい。
泊ってゆきなさいと親切にいわれるのを辞して帰ることになったが、そこから予想もしない事態になった。笹間氏の熱海の山荘は、新幹線の熱海駅でおりて、そこから網代まで電車にのりかえ、そしてタクシーで山の方へむかうという道筋であった。帰りはつまりその逆を行けばいいのだが、どこかで齟齬を来した。タクシーが下山に手間取ったのもあったのもあったろうし、新幹線の熱海までゆく網代からの接続の電車の時間の具合をしっかり調べておくべきだった。時間的には十分に帰りの新幹線に間に合うよう氏のもとを出た筈が、乗り遅れてしまった。要するに最終に乗り遅れ、いかなる方法をもってしても関西方面へは帰れなくなってしまったのだ。まるで野次喜多道中である。
近辺に俄か泊りでも一泊するところくらいはあった筈だが、一切そんなことは考えられず、気がついたら駅の公衆電話から「笹間先生」を呼び出していた。
「・・・・・・あ、そうですか、遠慮要りません。もう一度戻られて泊まられたらいいですよ」
地獄で仏の声である。
まさか駅頭で熱海の土産を買うこともならず、素手でそのまま「笹間山荘」へ舞い戻った。突然的に夫婦揃って風呂まで頂戴し、再び甲冑話。図らざる見事な倖せの夜となった。御夫婦にはまこと御迷惑であったに違いない。
あくる朝、迎えのタクシーを待っている間、ふと入り口の柱に不自然な穴が数ヶ所空いているのを認めた。送りに出た氏が私の視線の先を目ざとくみつけ、
「―啄木鳥のつついた穴ですよ」
清爽の朝風が樹々の間を吹きぬけ、少し黄色くなった葉群をそよがせた。
―昨夜の失敗はあってよかったな。
こちらの一方的な不注意を転じて福にしてくれた笹間氏御夫婦には悪いが、心の奥底から感謝の念が湧いた。
こうして私は笹間氏から篤い一宿一飯の恩義を被った。任侠の世界ではないが、この思いはいまだ秘そかに私の心の中に生きている。
その後、といってもまだ彦根在住の頃のことだから、この事から一、二年位あとか。知人が井伊直富(大老井伊直幸の世子)の具足を入手したのでそれに係って氏を彦根にお招きしたことがある。氏と知人と私の三人の特別研究会である。あくる日は例によって彦根城を案内した。当時市長をしていた井伊直愛氏の蔵品を展示した井伊美術館(現今は同氏の寄贈品を核にして彦根城博物館となっている)が天秤櫓の中に設けられていた。井伊直孝所用と伝えられる大天衝の美麗な具足の前に立った氏は
「―こんなに美くしすぎるものは本当の時代があるのかどうか」
憮然と云った。
たしかに大天衝は生ぶではなく明治の後補であるし、威しは勿論朱の塗漆も直孝時代江戸初期のものではない。有名な白熊の飾り毛も本来のものは何も遺されていないのだ。
「―井伊家の甲冑類は皆手入れが良すぎて、若く見えるのですヨ」
何とも答えずに、次に、
「象牙ですか、アレは、白さがいやに目立ちますネ。古い時代にはありませんヨ」
高紐の鞐の用材が気に入らないようだった。
私は問答を遠慮した。一宿一飯の恩義―を思い出した。
だからいまも要らぬことは書かない。
私のこういう思い出噺もみんな何十年も昔の夢物語ばかりとなった。通りすぎた人々のことはなるだけ振り返らないことにしているのだが・・・。
無常迅速―。
「相場を中心にした甲冑入門」より抜粋
一、はじめに
甲冑の入門書類はいろいろあるようであるが、有名甲冑を紹介して、時代による様式の変遷などを説明したものが殆どである。従前のそのような簡略ガイダンスではなく、もっと踏みこんだ入門書が欲しいという声を方々から聞いて久しい。踏みこんでというのは、たとえば詳しい鑑別のしかた、楽しみ方、そして更に趣味から実益に及ぶアップトゥデイトな価格・相場の指導、賢い購入の仕方等々・・・である。学問的体裁を繕って取り済ました形式的なガイドではなく、即、実効的に役立つ、売買に絡む腥い(なまぐさ)話柄も取りこんだ活きたガイダンスが、諸賢の望むところらしい。
私は甲冑武具に係って半世紀近い人生を送って来た。研究調査と、商売としての二筋道を歩んできた。この道程は、単なる甲冑研究家や、古武具骨董商には理解の及ばぬ、実践しがたいむつかしい難路であった筈だが、今、振り返ってみると、苦しみの記憶より楽しかった思い出の方が多い。耳順を踰 (こ)え、しきりに思うのは、そのような希有の道を無事に歩ませてくれた天恩への感謝である。そして、この魯老が巡りまわった路次に適み拾いしてきた艸々(くさぐさ)を、後の同行の道のたより苞(つと)にするのも天恩に酬いる道ではないかと考える。但し、鎧兜といっても考古学に属する上古のものや、一般の者が手にすることの殆どない中古時代の大鎧等の古制甲冑については略筆する。あくまで主眼は日常的なものに据えることにしたい。つまり、当世具足が中心になる。叙述については一切参考書類は用ない。ここにスタンダールのことばをもち出すのはいささか場違いの感があるが、脳裏に埋没しかけているこれまでの知見を「書きながら思い出し、思い出しながら書く」というやり方で更に未来を考える。つまりは活きた相場を掴むのが本稿の主眼である。ただし最近は値下がりが甚だしいので、そのことにふれる私の筆鋒は気分的に鈍りがちになりそうである。しかし「陽はまた昇る」。気をとり直して頑張ることにしよう。
二、鎧兜に日本人の魂を探る ―現実的な話の前説―
最初から甲冑に係る金銭話に入るのはいかにも露骨であろう。多少考証っぽい理想論から入ることにする。
古来、刀は「武士の魂」といわれた。鎧や兜については刀剣に対する程表立って喧しくいわれていないようであるが、やはり刀と同じく武士の表道具で、神聖視されたのである。
ことに古名家伝来の鎧や兜には必ずといっていいほど一種神格化された伝承があったもので、更にこれを各武家いちいちに探索の網を広げて調べたら、かつてはどのような侍の家にも、何物にも換えがたい由緒伝歴を保った甲冑が魂の拠りどころとして神聖視され大切に保存されていた筈である。つまり、鎧や兜は刀剣同様、もののふの精神そのものであったのである。この最も典型的な例証が戦国甲斐武田家と、重代の「楯無の鎧」にある。
楯無の鎧というのは記録的には武田家だけの専売ではないが、現今一般的に「タテナシ」という場合は甲斐武田家伝世の「楯無の鎧」を指す。この鎧は現在塩山市の菅田天神に国宝として伝えられている、小桜黄返の大鎧がそれだとされているが、後世の改造甚しく、全く別物だという説もあり、実正のところはっきりしない。
現存武田家由緒伝説の鎧考証はひとまず措くとして、戦国期武田家に在った重代の楯無の鎧は、伝来の「御旗」と共に同家における重大な儀式の場合にのみ用いられた先祖新羅三郎義光以来の神宝であった。この旗と楯無の鎧の前で誓言された事柄はいかなることがあっても覆すことは許されなかったから、文字通りヨロイは神であったわけである。このような例は長くなりすぎるので、他を挙げないが、例話には事欠かない。
右にのべたように、鎧兜は武士の魂代(たましろ)であった。わが国の人々がきびしい身分制度で縛られていたむかし、その指導支配者的地位にあった士大夫、貴紳が精神の拠りどころとしていたものが戦場に命を賭して戦うときの防禦道具の甲冑であったことは、一方の攻撃兵器であった刀剣が同様の扱いをうけて来たことと相俟って至極当然のこととして理解できる。