井 伊 美 術 館
当館は日本唯一の甲冑武具・史料考証専門の美術館です。
平成29年度大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」の主人公直虎とされた人物、徳川四天王の筆頭井伊直政の直系後裔が運営しています。歴史と武具の本格派が集う美術館です。
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公用方秘録(大老直弼の重要政務要録)について
井伊直弼の実像 ―特別展に添えて―
『公用方秘録』原本清書本(井伊達夫蔵)の重要性
歴史資料と所蔵者に対する配慮及び発表の姿勢について
(彦根藩公用方秘録を巡って)
井伊 達夫
本年の展覧会を機に、従来から懐いて来た井伊直弼についての種々(くさぐさ)をともかくも纏める事に致しました。只今鋭意机に向かって努力中ですが、生来魯鈍の遅筆、なかなか捗が行きません。出来次第発表させていただく所存であります。
ところで従来から知られている大老直弼の政務要録ともいうべき「井伊家本公用方秘録」(これ迄称されてきたところの「公用方秘録」は本書及びその写本を意味し、直弼研究書の殆どはこれを引用ないし参考にして来ました)に重要な史的事実の改竄があり、その事実については今から40年以前、彦根在住の時分既に私が発見了知していました。しかし彦根独特の地方的環境や人情を慮って、その事実の発表はごく一部の人々にのみ限定し、あとは時代の変化、時節の到来を待つことにしたのです。その後、彦根城博物館が誕生したので、前記改竄の発見のもととなった私蔵の史料「公用方秘録」(本来の原本浄書本)も提供致しました。これで私の永年の思いが実現したわけです。前記の史料を専門に研究されたのは当時博物館に在籍し、今は大学教授になっておられる母利美和氏が主で、他に佐々木克氏を主幹とする彦根城博物館の幕末政治史研究班として共同研究に携わった人々です。ところがその後公刊された母利氏の論考(たとえば『史料公用方秘録』[2007年3月、彦根城博物館刊])には発見と公表に係る片言でも記してもらわなければならない真実が一切記されていませんでした。一行でもいいのですが、全くない。その前に私が出した『歴程集』(限定200部、2005年12月刊)の中に寄せられた母利氏の文ではこの辺りの真の事情―事実の認知―についてわずかに触れられていながら…です。少部数しか出ていない内輪の私家本中で、上記の事情では第三者に殆ど事がらは理解できず、仮にわけが理解されても知る人は極めて少数です。このところ前後の事情は煩を避けてあえて省略しますが問題なのは母利氏の論考などを参考にする後進の方の記事(たとえば井伊直弼「開国の功労者」の憂鬱―奈良勝司、幕末維新人物新論中の一稿[2009年、昭和堂刊])などに私蔵の公用方秘録を解説する記事中においてこの史料を最初に発見し、世に紹介したのは母利氏や佐々木氏であるとされていることです。人物新論の筆者に史料掲載の許可をしたのは私ですからこの筆者自身に問題はありませんが、本当の発見に係る前後の事情は知らないのです。これらのことは一寸困りものです。ある事実を正しく記さない一次的発表、それに基づく誤認の伝播がこわい。史料の第一発見、つまり発掘者と重要性の認知をしたのは私でした。事情により公表を配慮したのもそうです。単に史料の発見にとどまらず、この重要性(この場合従前からの直弼の歴史を書き換える必要性を感じた程の事件)を認知しながら、なおかつ状況を考えて発表を先送りにしたことは簡単にみえて結構努力と忍耐の要ることです。問題はここなのです。これは事柄としては小さなことでしょうが、小事は大事を含んでいます。私の史的仕事の内のひとつとして大切なことです。このことを母利氏に伝えましたところ早速に下記のような反省を交えた懇切な一文を寄せられました。全文は「井伊達夫氏と井伊直弼」と題した井伊美術館直弼特別展のための史料解説を中心にしたやや長文のものなので、取りあえず、該部分のみ抄録し、問題点を明確に整理しておきたいと存じます。
頂戴した母利氏の文章は私の「直弼稿」(題未定)に特別寄稿として全文を収録発表の予定です。また本文のいくつかは現展示資料に係る部分稿に分けられますので、それについてはホームページ要所に摘録させていただくつもりです。急ぎの拙文ですので意のつくせぬ舌足らずなところいろいろ不備のところがあるやも知れませんが御察読をお願い致します。
(平成24年3月)
歴史研究者と史料
京都女子大学文学部教授
(元彦根城博物館学芸員)
母利 美和
・・・前文省略・・・
問われているのは、歴史研究者の姿勢であろう。近年の歴史論文に限らず、歴史研究者は歴史の大筋を理論的に解明しようとするばかりに仮説を立て、その仮説にしたがって必要な史料を抽出して論じる場合がある。論理立って、必要な史料が並べ立てられれば、あたかも実証されたかのような錯覚に陥る場合も見られよう。
しかし、必要な史料を渉猟することが大事なのではなく、遺された史料の全体像から、記された情報を例外なく、過不足無く論理的に位置づけなければ、確かな歴史像を描くことは不可能である。断片的な史料を抽出し、いくら直弼の仮想人間像を形作ったとしても、新たな史料の発見によりもろくも崩れ去ることになる。理想は、新たな史料がいくら出てきても、それまでの歴史像の補足にこそなれ、齟齬をきたさないことであろう。それが大変困難であることも重々承知しているが、その姿勢こそが大事なのである。
私自身、これを教訓として真摯に史料と向き合う姿勢を、時には氏が「彦根藩公用方秘録」の「公表」に際してとられた史料への配慮も心がけながら、これからも続けていきたいと念じている。
最後になるが、私は勿論、新たに直弼を論じる研究者たちは、この史料の第一発見者は井伊達夫氏であること、またこの史料から直弼の人物像の違いを充分承知したうえで、時代の背景のなかいわゆる「公表」を控えられた井伊氏の「配慮」に敬意をあらわし、尊重しなければならないと感じている。拙著刊行時(二〇〇六年五月)は、これらの事実を知らなかったが、この事を認知した後の二〇〇七年三月に刊行された『彦根城博物館叢書7 史料「公用方秘録」』でも私は経緯について記さなかったため、私や佐々木克氏をはじめとする彦根城博物館の共同研究での成果ではじめて明らかにしたかのごとくになってしまった。井伊氏にはもっと礼を尽くして、これらの経緯を明記すべきであったと反省している。今後は、勿論私もこのことに十分注意することはもとよりであるが、この問題に触れる研究者各位には、これらの経緯を十分に踏まえて、研究発表の際には第一発見者である井伊氏の歴史と人物への心遣い、史料保存の辛苦と情熱に配慮すべきだと思う。
(平成24年3月 『井伊達夫氏と「井伊直弼」』より抄録)
公用方秘録の公表について(補記)
井伊 達夫
井伊直弼の政務要録である私家蔵本『公用方秘録』の中には、日米修好通商条約調印直後における直弼の失策の自覚と狼狽を明確に記している。この事に関しては早くから気付いていたが、当時の彦根の直弼一方的尊崇の雰囲気から公表は時期尚早(昭和45年-1970-頃)と判断し、控えていた。「時を待つ」というのがその時の私の決心であった。
世が「平成」になって彦根市も市史の新修編纂を開始し、私も史料類の提供協力をするようになったので、発表にふみきった。この一件は幕末政治史の重要なポイントを根本的に書き直さなければならない文字通り秘録の一件といってもよかった。
直弼の政治姿勢や平常の覚悟は如何にもあれ、彦根における直弼公はとにもかくにも神サマではなくなって、血が通った「井伊直弼」になった。直弼も欠点や弱味のある普通の人間である。天下の大老だからといって万能であるわけがない。これまでの「観念的直弼尊像」では決して直弼を正しく評価することはできない。
これによって沈着冷静、不動の勁い精神の権化のごとくにのちの人々に思われていた直弼のイメージは、根本から崩れてしまったかも知れない。しかしその根本において、正義の人であった。これらの事実は正しい事実として行かねばならない。直弼の正しい評価はこれからである。これでよかったと私は思っている。
(平成23年1月)
井伊達夫氏と彦根藩関係文書
京都女子大学文学部文学部教授
(元彦根城博物館学芸員)
母利 美和
井伊達夫氏との出会い
井伊達夫氏との初めての出会いは、まだ私が彦根城博物館に勤務していた時である。当時は、中村姓であられたが、京都市東山区、建仁寺にほど近いご自宅を、史料調査のお願いのためお伺いした。平成6年(1994)冬のことである。
じつは、「中村達夫」氏(平成17年に旧与板藩井伊家の名跡を継がれ改姓された)のお名前は以前から存じ上げていた。私が彦根市教育委員会の博物館準備室に勤務しはじめた1985年頃、氏から教育委員会へ『戦陣武具資料参考館開館記念目録』をお送りいただいた。一見して、そこに収録された武器・武具の写真や所蔵目録よりも、むしろ後半に付された「二 古文書史料之部(彦根藩井伊家史料類)」を見て目を奪われた。その重要性は、実物を見ないまでも十分理解できた。また、多くの彦根藩関係の歴史著作をものされていることに感心した。まだ著作を拝見していない時期であったので、歴史家なのか歴史作家なのか、どんな方なのか機会があればお会いしてみたい、またこれらの史料を、何時かは拝見させていただく機会が来ないものかと念じていた。
しかし、当時は博物館開館準備に追われ、まずは井伊家から預かることとなる膨大な「井伊家伝来古文書」の把握につとめることが職務の先決であり、しかも彦根藩について、いや近世大名や藩政史においても不学な私にとって、まずは彦根を知ることを目標とせざるを得ない状態であった。また昭和62年(1987)2月の開館後も、ほぼ毎月の展示替えや、特別展・企画展・テーマ展などの企画物の準備などで、ただ毎日の業務をこなすに精一杯の時期であった。
その後、平成元年(1988)には、氏が昭和53年(1978)から『湖国と文化』誌上に連載しておられた「井伊軍志 (一)乱世創業編」を『井伊軍志 ―井伊直政と赤甲軍団―』と題する著作をまとめられたことを知り、早速拝見した。豊富な彦根藩井伊家に関する史料を博捜され、たしかな考証のもとに、初代井伊直政から、その嫡子直継の世代までを描いた歴史叙述である。本文叙述には、多くの会話文が挿入され、さながら歴史小説を思わせるが、随所に歴史論文のように、古文書・古記録類の史料から原文が出典名を添えて引用されている。歴史小説と論文の中間的叙述方法を採っているが、氏の執筆意図は、歴史小説のように歴史事象をモチーフとした虚構の、いや言葉を換えれば作者の想像する歴史像を自由に描くのではなく、叙述の根拠を明確に示すことにより、読者にわかりやすい歴史叙述として採用された手法なのであろうと理解できた。簡明な説得力のある氏の歴史叙述は、あくまで在野の歴史研究者のそれである。
引用された彦根藩井伊家関係の史料には、「井伊家伝来古文書」には見られないものが多く目についた。それらは、『大日本古文書』などの刊本となっている史料集から引用されているものも多いが、彦根市立図書館所蔵や早稲田大学図書館所蔵の古文書や写本であったり、それ以外のものも、『戦陣武具資料参考館開館記念目録』を調べてみると、多くは氏自身の所蔵史料であった。つまり、未公開の原史料からの引用である。さらに、もう一つの驚きは、それらの史料は、「井伊家伝来古文書」では得られない、彦根藩草創期の藩内の事情を物語る重要史料であったことだ。
残念ながら、その重要性を知りながらも、氏とは長らくお会いする機会を持てないでいたが、平成6年(1994)に井伊家から彦根市へ伝来の古文書をはじめ、大名道具をはじめとする美術工芸品を寄贈されたのを期に、状況は一変した。彦根城博物館内に、「井伊家伝来古文書」を中心に研究・公開する史料室が新設され、井伊直弼の事績をはじめ、彦根藩政や武士社会の研究を推進することを目標に掲げることとなったからである。私も学芸員として古文書と武器・武具を扱う二足の草鞋状態から史料室に配属となり、いよいよ本格的に歴史研究に専念できる体制に身を置くこととなった。
そこで、まず提案したのが、博物館外の所蔵史料の調査であった。「井伊家伝来古文書」を研究する史料室の発足の意味を考えれば、研究者を外部に求め、外部の資料調査をおこなうとは本末転倒のような気もするが、じつは「井伊家伝来古文書」の重要性とともに、その限界性を、それまでの博物館での仕事を進める中で十分すぎるほど理解していたからである。
井伊家に伝来した古文書は、平成8年(1996)6月に「彦根藩井伊家文書」の名称で国の重要文化財に指定されたが、その多くは藩主である井伊家の「家」の系譜や家政運営に関するものであり、藩政の実務に関する史料、城下町や村々に関する史料はほとんど遺されていない。また、古文書の多くは系譜関係史料などの一部を除いて享保期以降の史料であり、藩政研究を行う上では、氏の所蔵される史料がなければ不可能であることは明白であった。
こうして冒頭に述べた氏との面会は、氏の名前を知って以来、約10年ぶりに実現することになった。ご自宅二階にある書斎に通されて、初めての印象は、六尺を超える体躯にして、背筋が通った武道家のような強健な氏の印象もさることながら、ご自宅のいたる所に置かれた武具や歴史関係の文献に目を奪われた。鋭い眼差しと、単刀直入に切り込まれる言葉の波にたじろぎながらも、博物館での研究活動の意義にご理解を示され、全面的な協力を約していただいたことは、この上ない喜びであった。以来、博物館での史料調査や展示、平成9年(1987)から始まった『新修彦根市史』の編纂事業でもお世話になっている。現在の私の研究活動は、氏の所蔵史料なくしては不可能といっても過言ではない。その史料の一端をいくつかご紹介しよう。
彦根藩における公文書の保管と木俣家文書
本書に寄せられた井伊岳夫氏の随想でも触れられているが、井伊達夫氏所蔵の史料(古文書)の大半は、旧彦根藩の筆頭家老木俣清左衛門家をはじめ、三浦与右衛門家・岡本半介家など藩の重臣家に伝来したものである。重文となった「彦根藩井伊家文書」は、近世大名井伊家の歴史や彦根藩政史を考える上で重要であることは言うまでもない。たとえば、元禄4年(1801)に編纂が開始され彦根藩の家臣全員の履歴を記録した「侍中由緒帳」や、いわば江戸留守居役の職務をつとめる城使役が、享保以降、江戸での幕府と諸大名等の交際関係を輪番で記した「城使寄合留帳」は、彦根藩を研究する上では基本史料となる。しかし、これらはあくまで藩政運営上の最終結果を記録したものであり、その結果に至る諸処の交渉や評議の経緯については、ほとんど記されていない。
彦根藩において、それら藩政運営に関する公文書の保管体制はまだ十分解明されていないが、目付役が作成する「侍中由緒帳」は、彦根城第二郭の京橋御門櫓内に目付役所があり、そこで家臣の人事考課のため、つねに管理・利用されていた。「城使寄合留帳」は、日々の公務記録であるので、基本的には江戸上屋敷内の城使役詰所などで保管されたと考えられ、その写しが彦根にも保管されていた。しかし、家老や用人などが輪番で当番をはたす際に記録された「御用日記」などは、その時々の家老などの家に保管されていることがあるようで、氏の所蔵文書の中にも日記の簿冊が見られる。また、これまで彦根城博物館がおこなってきた「彦根藩井伊家文書」の調査や旧藩士家の史料調査でも、もともと藩士の家に伝来したものが、後に藩庁に提出されたものや、藩士文書の中に、藩士の家政に関するもの以外に、藩の臨時御用を勤めた際の公文書類が一部含まれることがあることが確認されている。具体的には、享保3年(1718)に大津百艘船と彦根三湊が大津湊での三湊の船への荷積み権限を争った「大津百艘船舟積争論」に関する史料は、当時この争論解決に奔走した木俣家が保管してきたが、のちに藩政の重要文書として藩の宝蔵へ納められたものであった。おそらく、臨時御用などにおいては、御用をつとめた家臣の家に保管することが慣例となっていたのであろう。
氏の所蔵史料の中で、最も注目される史料は、享保20年(1735)に六代木俣守貞が編纂した「木俣記録」である。二十数冊におよぶ、近世初期から享保期にいたる藩政関係の重要文書が約千点収録されており、近世前期の藩政形成期を研究する上では不可欠な史料である。
享保20年前後は、彦根藩および木俣家にとって大きな転換期であった。一つには享保期に専制的性格をもった藩主とされる七代井伊直惟が五月に隠居したことである。また、直惟の時代、とりわけ享保3年以降、「執権職」という家老権限を上回る職、幕政で言えば大老に匹敵する職に就いた先代木俣守盈が、前年9月に死去し、守貞が家督を継いだばかりのことであった。直惟の隠居にともない、老練の家老西郷員詳、同じく宇津木久英も隠居し、長野増業・西郷員栄・脇豊房が新たに老職に登用されるという大きな人事異動もおこなわれた。守貞による藩政関係史料の編纂は、こうした藩政の転換期において、新たな藩主のもとでの君臣間の緊張関係を背景に、代々筆頭家老を務めてきた木俣家の役割を、歴代が関与してきた藩政文書を整理・記録することにより、再認識する意味があったのではないだろうか。
この編纂には、木俣家が保管した文書だけが収録されたのではない。現在、「彦根藩井伊家文書」の中の豊臣秀吉や徳川家康・秀忠・家光からの御内書や御判物とよばれる書状が保管された「御判物箱」に含まれるものも多数収録されており、守貞の編纂は、たんに木俣家由緒のためではなく、なかば彦根藩井伊家の公的編纂事業として位置づけられていた可能性も考えられよう。
木俣本「公用方秘録」の意義
このような木俣家特有の役割は、幕末期の大老井伊直弼の暗殺事件である桜田事変後に迎えた彦根藩危機の局面でも発揮される。当時の当主十代木俣守彝は、直弼没後、四ヶ月たった万延元年(1860)7月朔日、「執権職」を命じられた。主君が暗殺されるという彦根藩存亡の危機を迎えた時期であり、また直弼の世嗣直憲がまだ十三歳という若年であったためであろう。
直弼の大老政治に関していえば、大老直弼の意思を汲み取り輔佐したのは家老三浦実好(内膳)をはじめ国学者長野義言(主膳)や側役兼公用人宇津木景福(六之丞)たち直弼の側近グループであった。一方、彦根藩の内政運営を任されたのが木俣守彝をはじめ、庵原朝儀、新野守業、脇豊武ら在藩家老たちであった。
この内、最も直弼に近侍していた宇津木は、直弼没後に、大老の公用役としての職務(一面では直弼の大老としての事績)を記録するため、同役の協力を得て「公用方秘録」を編纂した。この「公用方秘録」は、井伊直弼の大老就任期間における彦根藩の動向は言うまでもなく、幕府内部の政治動向を知る有力な史料として周知の史料であろう。とくに井伊直弼の大老政治についての叙述では、島田三郎氏が明治21年(1888)に著した『開国始末』において、「公用方秘録」をはじめ「秘書集録」などの井伊家史料の存在をに公表して以来、彦根藩側の史料という限定つきではあるが、多くの研究者がこの記録を引用して論じてきており、当該期の政治史研究にとって不可欠な史料となっている。
「公用方秘録」は、東京大学史料編纂所における『大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料』の編纂においても、自筆原本・草稿本のほかに写本が利用され、また、その書名も『公用方秘録』と総称されてきたが、厳密に言えば安政5年(1858)12月6日以降の部分は「公用深秘録」と表題されていることが確認される。しかし、井伊家史料の公表があまりにもセンセーショナルであったためか、十分な史料批判がおこなわれずに用いられてきた。一般的に利用されてきた東京大学史料編纂所が所蔵する『公用方秘録』の写本は、「公用方秘録」四冊、「公用深秘録」二冊の写本に、第七冊として「御城使寄合留帳・直勤日記・公用方諸事記・公用諸事留・御取次頭取諸事留帳抜粋」の部分的な写本を添えて、明治18年(1885)8月に井伊家から明治政府へ提出されたものである。じつは、この明治政府への提出の際、井伊家側では、かなりの部分にわたる削除、加筆、改竄などによる改編がおこなわれていたのである。
私がこの事実に気が付いたのは、平成8年(1996)のことであった。そのきっかけは、同年に発足した彦根城博物館での共同研究「幕末政治史」において、研究者が直弼の政治動向についての知識を共有するため「公用方秘録」を輪読することになったことであった。輪読を開始するに先立ち、まず、どの史料を輪読のテキストにするか検討することになり、数年前から存在を知っていた「中村達夫」氏が自費出版されていた木俣家本の『彦根藩公用方秘録』(影印本)を思い出した。初めて古本屋で目にした時は、写本資料でもあり、博物館で原本が見られるのだからとあまり関心がなかった。彦根市立図書館へ赴き、その内容を井伊家の写真本と比較すると、大筋では同じであったが、ある部分で決定的に違う記事を見付けたのである。
それは安政5年6月19日から20日にかけての記事であった。日米修好通商条約調印前後の記事である。
この部分は、「勅許を待さる重罪は甘して我等壱人に受候」と直弼が調印を指示した心境を側役宇津木景福に語ったことで知られた有名な部分である。しかし、『彦根藩公用方秘録』には、一言もこの言葉はなく、「諸大名之存意も御尋之上ニ而御治定ニ相成候ヘハ宜候得共、左も無之而ハ世上ニ而も彼是申唱、弥以京都ニ而も御逆鱗ニ可有御座与申上候処、如何ニも其所へ心付不申段ハ無念之至、此上ハ身分伺候より致方無之御意ニ付」との異なる記事が見られた。つまり、(条約調印の許諾指示が)諸大名の存意伺いの上決定されたのであれば良いが、さもなければ世上にも批判が生じ、京都の天皇も逆鱗となると宇津木が申し上げたところ、直弼は、その点に気づかなかったのは無念である。この上は、身分伺いより他はないと述べたというのである。
目の前が真っ白になるほど衝撃的であった。驚きで霞む目を疑い、何度も何度も繰り返し読み直した。よし、よしと、それ以外の部分にも異同はないか頁をめくって見ると、そこかしこに異同が確認された。これは大変なことになると思った。
博物館に取って返し、他の井伊家本とも校合してみると、異同があるのは『彦根藩公用方秘録』だけであったが、井伊家本の中には、墨で抹消されたり、墨や朱筆で加筆されたものが確認され、しかも、例の条約調印の記事の部分は、数頁に渡り、別紙により差し替えられていることが確認できたのである。
これは改竄だ。従来、井伊家では「公用方秘録」の草稿原本と考えられてきたものが、また吉田常吉氏も、名著『井伊直弼』の中で図版に採用して紹介された「公用方秘録」は、この墨で抹消されたり、墨や朱筆で加筆されたこの史料であった。もしかして、明治18年(1885)に井伊家から明治政府に提出する際に、加除改竄されたものではないかとの予感が頭の中を巡った。
「公用方秘録」と称される史料は、井伊家の公用人自筆本以外に、東京大学史料編纂所の所蔵分の写本だけでも五本が確認される。このほか、管見の限りでは、彦根藩井伊家文書に二本、宇津木三右衛門家文書に一本、木俣清左衛門家文書に一本(井伊達夫氏所蔵の『彦根藩公用方秘録』)、宇和島伊達家文書に一本、京都大学文学部に三本、お茶の水図書館の成簣堂文庫に一本、福井県立図書館の越前松平家文庫に一本、佐倉藩堀田家文書に一本が伝存している(毛利家文書にも一本あるが未見)。しかし、問題は井伊家の公用人の自筆本は、安政5年4月から同年9月5日までの部分(東大所蔵写本では前二冊の部分)を欠いていることである。それ以降は、宇津木ら公用人自筆の原本が「彦根藩井伊家文書」の中に確認された。そのため、諸写本の調査をおこなったところ、『彦根藩公用方秘録』以外はすべて、東大史料編纂所の写本と同じ系統であり、従来井伊家で「公用方秘録」の草稿原本と考えられてきたもの、つまり明治時代の加除改竄のための稿本と同じであることが判明した。
すなわち、安政5年4月から同年9月5日までの部分については、唯一『彦根藩公用方秘録』だけが、今や失われた原本の記事を伝えていることが判明したのである。ただし、『彦根藩公用方秘録』は原本の抄録と考えられ、その事実は、「中村達夫」氏が「公用方秘録解説」の中で、「本書と井伊家蔵の公用方秘録(の既に版になった部分)とを比較してみると、詳しい部分もあれば省略されている箇所もある。だが重要な記述は微細に記されており、省略されている点は肝要の部分でないので史料的に不足にはなっていない。」と、述べておられるところからも、氏自身は気付いておられた。ただ、氏は傍線部にあるように「詳しい部分もあれば」と指摘し、二箇所を例示されたが、それ以上踏み込んで、詳しい部分が存在する理由を検討されるには至らなかった。
しかし、氏の談によると、当時、次のような経緯があったという。当時の彦根では、戦後、昭和23年頃から井伊家史料が研究者に公開されはじめ、彦根の郷土史研究者の間では、「大老史実研究会」が発足するなど、直弼の復権のための活動が活発となっていた。昭和40年代でもその状況は変わらず、氏があらたに入手された『彦根藩公用方秘録』を、その中心人物であった末松修氏に問題の部分を見せると、これは公表しないでほしいと、念を押されたという。当時、これが改竄なのか、あるいは、たんに異なる記載のある写本なのか、末松氏がどう判断されたのかは不明であるが、直弼の復権の活動には不都合だと考えたのであろう。(※)
井伊達夫氏と井伊直弼
氏が『彦根藩公用方秘録』を自費出版されたのは、昭和50年(1975)のことである。
氏は後に、『井伊軍志』を著され、その「はじめに」の中で、氏の歴史研究と井伊直弼への関心を、中学生の初めての日本史の授業で、皆の書けない「直弼」の文字を正確に書いた、といういきさつを記したうえで、次のように述べておられる。
この時こそ、先祖ゆかりの「井伊氏」ないし「直弼」を、何かは知らないが明確に意識した最初であった。
―直弼をいつか書いてみたい
そう思った。
だが現実と理想は常に相反する。
匆忙のうちに歳月はすぎた。
気がついたとき、私は一応モノを書くのが職業となっていた。昼は書士業、夜は新聞や放送用の歴史原稿作成……。「直弼」どころではない。「直弼」は遠かった。しかし常にかれとはどこかでコンタクトしておきたいと言う願望が私を彦根藩関係文書の蒐集と解読研究へとかり立てていった。(中略)私が『井伊軍志』を執筆することになったのも、つまりは直弼探求がその動機となったわけである。(以下略)
また、井伊家初代の直政と直継の執筆を終えた「あとがき」にも、
それにしても……
「直弼」は遠い。
嗚呼。―。
と締めくくられている。
『井伊軍志』の執筆は、昭和53年(1978)10月から始められており、『彦根藩公用方秘録』刊行の3年後のことである。その執筆構想は(一)乱世創業編(これが『井伊軍志』にあたる)、(二)偃武確立編、(三)昇平守成編、(四)動乱瓦壊編と、近世大名井伊家の全史をカバーする壮大なものである。「はじめに」「あとがき」でも述べられたように、その動機は直弼にあることは言うまでもない。
氏は「公用方秘録解説」の中で、当時の直弼に関する考えを少しまとめておられるが、まだまだ本格的に執筆するには時間を要すると考えられたのであろう。『彦根藩公用方秘録』を刊行されたのも、直弼探求に不可欠な史料として、世にひろく紹介しようとされたのであろう。
しかし、発行部数が限られていたこともあるが、氏の意図は届かず、長らく『彦根藩公用方秘録』の存在は歴史研究者の目に留まらなかった。じつに18年もの長きにわたってである。
幸いにして、直弼を「歴史事実」に基づいて正当に評価出来る時代となり、私がその改竄の意義を公表する機会を得ることになった。氏よりも先に拙著『井伊直弼』を世に問うことになったが、氏の直弼探求への思いを振り返ると、その責任の重大性を痛感している。私自身の研究も、彦根藩全史にわたっているが、たまたま私の場合は直弼が最初になった。しかも、まだ研究の緒に就いたばかりである。氏の懐の深さには、まだまだ及びもつかない。これからも私自身、直弼研究を続けていくことになるが、いつかは氏の軍事・兵法に精通した観点からの直弼論を読んでみたいと願っている。
末筆ながら、これまでのご高配に感謝しつつ、これからも精進して研究に取り組むことで、そのご厚恩に応えていきたいと念じている。
(※)太字部分においては真実とニュアンスが異なっています。
下記の<『公用方秘録』公表秘話>に編者による訂正文章が記されていますのでご参照下さい。
(『歴程集』 平成18年刊 より抄録)
『公用方秘録』公表秘話(補記)
井伊 達夫
私が発見して現蔵している『公用方秘録』中における大老直弼狼狽の一条(安政5年6月)について末松修氏とのやりとりの部分、母利氏の文と聊かニュアンスが異なるので、補記しておきたい。
従前伝えられてきた米国との条約勅許無断締結時における直弼の態度と全く異なる記録を前記の秘録中に見出したときは、実のところ心底驚いた。
本資料を私は『公用方秘録』(木俣家本)と表記している。木俣家に限らず私が史料にあえて出所を瞭らかに「・・・記録」あるいは「・・・本」等と名づける所以は、あく迄旧蔵家先祖(藩政期)の記録文書に対する思い入れに報いる為である。当時彦根で古物を商う人の多くは、旧所有者の手前、その他いろいろな意味から大抵出所を隠蔽したものであるが、私は将来を慮ってあえて旧蔵者名を冠した記録名を残してきた。隠すのは容易なことであるが、それをしないことが伝世史料に対する正しい接し方、礼儀と考えたわけで、この姿勢は正義であると私は今も考えている。
さて、『公用方秘録』を入手して間もなくのこと。それは多分、昭和44、5年頃と記憶する。わたしはその頃しばしば末松修氏のお宅へ出入りして、彦根史話のやりとりをしていた。末松氏の住いは外堀端(旧中堀)ぞいの旧鈴木権十郎邸址か、駅前近くの明塚家隣邸か、とも角、そのどちらへも伺っていた(末松氏は私の高等学校時代の先生であったが、在学中は一度も授業を受けたことがなかった。社会に出てから井伊家の歴史を介して交流したもの不思議なことである)。
私は井伊家の武備と藩政初期、井伊直政、直孝時代が得意で、氏は井伊直弼の研究の第一人者であったから、互いに有無相通じるところがあり、一談後はオイ、一杯やるか―ということもあり、何度か酒肴の馳走にあずかった。
そんな例のうちの一日、氏に『公用方秘録』を示し頭書の一件を話した。この時は私が氏の宅へ赴いたのではなく、氏が当時彦根の外町にあった拙宅を訪ねられたときであった。
大変暑い日で、氏は自転車に乗って、暑熱をものともせず、西瓜を片手に引っ提げてこられたのが記憶の襞に鮮やかにのこっている。西瓜か史話か、いずれが先になったのかその辺は曖昧だが、『公用方秘録』の問題の部分を呈示すると、氏はかなりの間絶句していたが、やがて、ウーム、ウームと首を傾げながら二、三度呻吟し、
「こりゃ、えらいこっちゃな」
「・・・・」
「これが記録としてな、正しい方のもんやナ。こりゃ、困ったがな。えらいこと書いたる」
「・・・・」
「こんなこと表沙汰になったら、直弼さん、面目丸潰れやナ」
従前の公用方秘録として流布しているものが改竄されたものであると知ったときの氏の驚きは大変なものであった。
私はこの時、近々これを影写本として出版しようと思っていることを話した。
「こんなもん、そのまま正直に解説して出したら、彦根の信奉者らが騒ぎよるデ。マ、キミがそのまま出すちゅうならな、正しいこっちゃからやったらええけど・・・。むつかしいところやな、こりゃ。わしは何もいわんが、ま、よう考えたってや」
記憶を再現すると、会話の本旨はおよそこのようなものであった。
氏はここで『公用方秘録』中の重大なこの事実を充分了知したのである。そして公表をやめろとはいわなかった。彦根の「信奉者ら」というのは多分「井伊直弼教」ガチガチの人々のことであろう。本当の表現はもっときついものであった。そういう人々とは没交渉であったからどういう人々を指すのか私には興味がなかった。ただ「考えたってや」ということばが、何とも優しかった。これは事実をあえて公表しないという、正しい歴史研究に反するいわば因循な態度を承知の上の優しさ、ナサケであると私は感じた。これは事実歪曲といわないまでも、事をありのままに研究し公表するという歴史研究の根本正義には反する姑息不義な行為ではあるが、「考えてや」という一言に私は動かされた。
今更、この事実を公にしたとて、怖れるものは何もなかったけれど、私の心が動いたのは氏が直弼に対して史家としてより、人間としてある種の強い愛情を抱いていることを感じたからである。当然ながら私も同様である。非公表を暗喩されたら「そんなこと、でけまへんデ」となるが、「考えたってや」には弱い。
そこで、表現的にはわかる人にはわかる―という範囲の書き方にとどめた。そのままでは少し気がすまぬところもある。違うカタチの直弼の批判は同書の解説でしておいた。考えてみれば過去の彦根の歴史研究の上で、直弼さんに対しいささかでも批判がましいことをいったのは私しかいない。これ以上のことは直弼さんに対する、いわゆる「さいなみ」であると感じた。
「えらいもん見さしてもろた。直弼さんのイメージがガタ落ちやが。」
記憶を辿ると大筋はざっと以上のようなものである。要するに末松氏はこれまで知られている彦根井伊家などの「公用方秘録」の改竄の事実を了知し、私も右のような事情による個人的判断で公表は控えたわけである。
私はその後京都へ出、いくつかの書物はものしたものの、俗事多忙の塵中に埋没、「井伊直弼ノート」も同時に大切に保存されたまま今も塵埃にまみれたままである。
「神・井伊直弼」時代の彦根をふりかえると、まるで信じ難いハナシである。末松氏は私に、「これは公表の時期ではない」などという指示的なことをいう人ではなかった。もとより左様な態度はいかなる人物に対しても許さぬ私であることを末松氏ならずとも彦根で私を知る人は皆承知していることであった。
というわけで、母利氏の文とは微妙な違いがあるが、これはもとより母利氏の責任ではない。私の説明不足であったのだろうけれど、畢竟、私は歴史学というものは人間学であり、また文学であると信じている。彦根井伊家の歴代がいまだ訂正されずにある現状を考えると、数十年前の末松氏と私との『公用方秘録』に係る神話的秘話などは、視点の当て方によっては興味ある人間学であり、また一種の文学であったということができるのである。
(『歴程集』 平成18年刊 より抄録)