井 伊 美 術 館
当館は日本唯一の甲冑武具・史料考証専門の美術館です。
平成29年度大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」の主人公直虎とされた人物、徳川四天王の筆頭井伊直政の直系後裔が運営しています。歴史と武具の本格派が集う美術館です。
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※当館展示の刀剣類等は銃刀法に遵法し、全て正真の刀剣登録証が添付されている事を確認済みです。
平成11〜22年特別展 開催のことば
平成22年特別展 乱世創業 井伊家の三代 直政・直継・直孝
いわゆる「江戸三百年」を通じて、一度の国替えもなく、肥沃の地江州彦根に居城し、たびたび幕閣の大老に任じた譜代筆頭の雄藩井伊家。この家の繁栄のもとをひらいたのは井伊直政でした。直政は関ヶ原戦後、褒賞として、敵将石田三成の居城佐和山を賜り、上州高崎より転封されましたが、関ヶ原での銃創が再発、目指していた彦根山築城も机上のプランのまま四十二才を一期として世を去りました。この直政の果し得なかった夢、彦根の新城を完成(第一期)させたのが彦根井伊家第二代の藩主となった嫡子の直継でした。
直継は多病だったといわれていますが、実は病者ではなく、大変温雅な生まれつきの人物で、その性格が乱世の将にむいていないため、表向き病気を理由に彦根藩主の地位から退隠(安中三万石)させられたのです。しかしこの直継の時代、城郭と城下町も創成され、のちの彦根藩政の基盤となるさまざまの法政的な事項が作られました。「彦根創業」という意味では実質的にこの直継を初代藩主の位置にすえなければならないでしょう。
三代藩主の座についたのは直継の庶弟直孝です。直孝は大坂両陣に大活躍をし、更に重要なのは家康が最も希望しながら、明らかな声をもって命令し得なかった豊臣秀頼とその母淀の方の亡滅を独断専行したことです。言外に意のある処を察知し、迅速に行動処断した直孝の決断力を家康は高く評価しました。その直孝に与えられた果実が彦根藩主の地位であり、大きく言ってしまえばその後度々重ねられた加増の全てと幕府における「天下老翁」の地位です。その間彦根城も第二期工事を終えて完成、城下町も大きく繁栄しました。士庶統制の法度も前代の綱領を基本にその大概がこの直孝の時代に整備されました。
直孝の時代は彦根藩磐石の地位を確定した井伊家の黄金期といっていい全盛時代でした。このあとの井伊家には名君功臣多々輩出しますがいずれもこの三代の恩禄と栄光に与るところが大きいのです。いずれにしても徳川家康の天下取りと殆ど時を同じくして幕府創世のため尽悴奉仕した井伊家の初政三代、直政、直継、直孝。この時代を一度ふりかえることは単に井伊家を懐古するだけでなく「江戸三百年」というものを考える上でも重要なヒントになるのではないかと思われます。今年はこの三代の武具を中心に関係資料を特集してみました。
(井伊家の歴代は史実に従って正しい代数をもって表記しています。)
平成21年特別展 武士もののふ・兵つわものの時代-合戦刀戟の証人たち-
いまはいい時代です。切腹もなければ本当に首を斬られることもない。これは古い時代の最期の人間の責任のとり方です。いまはそれがない。だから極端にいえば何事もいい加減なところでカタがつく。「おのこ」も「おみな」の上に立って、「おみな」の分まで責任を負う必要がない。「男女平等」です。
こういう世の中になると、まことの「おのこ」は育たない。
ところで、「もののふ(武士)」と「つわもの(兵)」ということばです。両方とも武士とか軍人という意味があって大まかにいえば同義のことばですが、「もののふ―物の夫」が人間である武士をさす単純な用語であるのに対し、「つわもの」は武人をさすと同時に「兵」つまり武器武具―兵具―を意味して使われることがあります。本展の場合、「武士」、「兵」の意味の使いようなどは厳密に考えてもらう必要はありません。少し用語の解説をしただけです。 さて、先にも書いた通り、近頃は「もののふ」「つわもの」の男社会がなくなって久しい気がします。「男」というものが、なべて弱く温和しく、家畜化してしまった。優しいだけが男ではない。これは勿論、容姿や言語動作をいっているのではない。要は精神の中身です。どこかに馴致(じゅんち)されない、猛々しさを秘めた野生が欲しい。本来の、もののふとか、つわものという者共はそうであった筈です。
私の住まいの近くに甘党で有名な喫茶店があります。日曜祭日になると長蛇の列。それはいいとして、その列の中でカップルの片われである男が同じように一時間も二時間も道の端に立って温和しく順番を待つ。これは腰抜け腑抜けにちかい。他にすることはないのであろうか。日本は半分以上滅んでいる―と私が考えるのは余りにも飛躍した危険思想であろうか。
合戦が日常茶飯の時代、刀や槍に携わる人間は、ことあるごとに自身の形骸を抛捨し、敵刃をもっておのが身を削らせる覚悟を決めたものです。もとよりおのれの肉を削らせた以上、対手は必ず斃す。
日々に死し、日々に生きる。今こそわれら「男」は、先人たちの大死一番の日常に学ぶ必要があると思います。
暖衣飽食、一人では何も出来ない時代遅れのおいぼれが、ひたすら戦国乱世のもののふ・つわものどもに憧れている。勝手なものである。いい気なものだと思いますが、これもマアいわば「残躯天ノ赦ストコロ」です。左様なわけで、サムライたちの命の品々を並べてみました。ともかく今年も御笑覧あれ。
平成20年特別展 大名家伝来の武器と道具
これまでの特別展では、武家の表道具である刀や鎧―つまり武具の展示が中心でした。十年間この主義を貫いてきたのは本館の旧称「甲刀修史館」の名に因むところが多かったからです。このたびは少し様子を更え、いわゆる奥道具及びそれに類する大名家の遺品もまじえて一座をまとめてみました。凶器である武具をハレの表道具とし、平楽の器物をケの普段道具とする。そしてこれを渾然一和せしめたものが、武家社会の代表である大名文化であったということがいえるかと思います。但、大名物といっても大藩の遺物は後代修補の手が入って状態が良好すぎ、生活感を喪失しているものが殆どです。たとえば井伊家藩主所用兜の飾りである大天衝や毛頭など、明治期の後補品であることを知る人はいないでしょう。当館ではその点に留意して手摺れのある道具遺品を採集し、できるだけ「貴人も人也」の常感覚を再生することに勉めてみました。
平成19年特別展 戦国の龍虎 上杉と武田
上杉謙信と武田信玄。少し玄(くろ)い日本史ミーハーの好きな代表的人物というと、いささか意地悪い表現ですが言い得て妙、かくいうそれがしも謙信・信玄=六対四のファンです。日本中世の終り、結びの一番に土俵に上った名横綱二人―といえばどうですか。これもまたピタリの表現でしょう。手前ミソですが。名人互いに譲らず、張合っている内に時は無情に迅遷して、生には老が、病には死が迫って天下の土俵から心ならずも姿を消さざるを得なくなる。やがて彼等が眼中にも入れていなかった信長・秀吉という新時代のヒーローが台頭してくるという按配です。
しかし謙信や信玄は、抽象的表現ながら、日本中世史に有終の美を飾り、後進の士将たちに「もののふの亀鑑」という引出物を与え、花道を大見栄切って去ることができたサムライ中のサムライ、幸運な弓取りでした。
以後上杉と武田の声名は武士にとって超一流のブランドとなりました。それが証拠に、戦乱が収まった徳川の世になってから、浪人たちが拙者は謙信公が青竹の指揮杖に従い申した、とかそれがしは故信玄公の声を聞いた覚えの者でござる―といえば案外にトライアウトが容易であったという事実です。彦根の井伊家にも信玄の下川中島を戦った勇将の子と名乗ってうまく仕官しおおせた侍がいましたが、川中島時代を生きて、その勇将を知っていた婆さんがいたものだから嘘がバレて追放されたというハナシがあります。上杉・武田の旧縁を語ることは、当時の新興大名の家々に対して極めて有効な再就職の為のゴールドカードでした。
わが井伊家中興の祖直政は、家康によって最も多くの武田遺臣群を召抱えた大名です。そうでありながら直政は信玄は余り好きでなく、謙信を尊崇していました。玄妙な戦略家より、純粋にして無私に近い戦術家、時に戦術をも無視する毘沙門の権化に憧れたのでしょう。孫子の兵略の抄言である「風林火山」は信玄の戦法を語る時の代表標語となっていますが、何も信玄一人の専売にすることはない。謙信や信長や秀吉など時代の一流人にはそのままに当てはまる男の生きて戦うための誓言です。勿論これは信玄謙信の時代よりもっと複雑で魑魅魍魎の跋扈にまかせている現代にこそ真実に活かすべきことばだと思います。
平成18年特別展 井伊兵部少輔家継承記念 特集 井伊の赤備と武具 Red Armor Collection of II Family
冒頭、私事ながら昨春縁あって旧與板藩井伊家を継承し中村から井伊になりました。若年より井伊家の武具甲冑や歴史の研究に携わり気がついたら約半世紀余り、いつの間にか、本人が「井伊」そのものになってしまったという按配です。與板藩は越後三島郡與板に城をもつ二万石の小藩でしたが、徳川四天王の筆頭で井伊家中興の英主井伊兵部少輔直政嫡系の家筋で、藩祖は彦根第二代城主から転じた嫡男井伊直継です。彦根を継いだ庶弟の直孝は父直政遺品の武具の殆ど全てを直継に渡しました。これは直孝が兄直継の家を「井伊直政嫡家」として尊崇した心のあらわれです。直継から数えて十八代目が不肖拙子です。甲冑と歴史を専門にやっている身として改めて我が家名となった「井伊」の「赤備」を再考する気持になりました。勿論記念的な意味合いもあります。実は今から八年前、井伊家の武具の特集をしたことがあります。こんなことを書いています。
朱(赤)色の甲冑が戦場に現れたのは、室町時代の中頃です。朱の色は目立ちます。当然臆病者は使えない。強者にとってのみ、格好よく冴える色なのです。つまり逆にいえば、朱の色は武功を証明するライセンスカラーといえます。
戦国時代になると、有力大名や国人衆の中に、配下の部隊あるいは軍団全体を朱色の甲冑で統一するケースがでてきました。武田信玄麾下では飯冨兵部の一隊、それに上州先方の小幡信真の一軍など。また小田原北条家も赤甲部隊を拵え、信州の真田も赤隊を編成したといいます。いわゆる「赤備」の発生です。この赤甲の集団部隊である赤備は、秀吉による天下統一の気運が高まった桃山時代に入ると、徳川家康配下で最大の軍団を率いる井伊直政隊に集約的に統一されました。「井伊の赤備」がこれで、井伊家を指して、アカオニというのは、この赤装の甲冑カラーから来ているのです。
この赤備というのは、その始源が部隊の勇功を主公が認めたところから来ているものですから、他の一般的な部隊や侍が勝手に朱色の甲冑を用いることは許されませんでした。個人的にこれが許されているような人物はいずれも公認の豪の者ばかりでした。これは単に甲冑の色柄のみに限りません。侍の表道具である槍にも準用されていました。皆朱の槍などというものがそれです。たとえば上杉家では皆朱の槍は名誉武功の者にのみ限られ、大変にうるさいものでした。これを新参の加州浪人前田慶次郎が勝手に用いたことで、逸話的な事件がおこっています。ことほど左様にもののふにとって大切な色である朱の武具、とくにその代表である甲冑について、現在ではその重要性を知る人は少いようです 。そこでこのたび当館では、戦国時代以来、もののふの夢と憧れの道具であった朱具足を特集し、男が本当のおとこであった時代の、彼等のいのちのうたを偲ぶことにしました。これはむろん我国初の試みで、天下一赤鎧の痴れ者である館主の自信作です。
「赤備」の要点は右に尽きる。改めて読み返してそう感じ、手前味噌もはばからず再掲しました。この点御容赦いただくとして、よく考えてみると、武甲に用いられた「朱」の色は哀しみの色でもあるということを近頃とみに感じるようになりました。真のもののふの悲哭の色です。特認色を汚さないようにするためどれ程のサムライたちがやせがまんして、無理をして、格好づけして死んでいったことか。ヨロイカブトが黒のような一般色であったなら、そして井伊家の士でなかったなら、そこまで見栄を張る必要もなく、生き長らえることができたかも知れない。―思えば朱色の表道具はまことに哀しみの色相です。そんなことは今更こと新らしく考えたことではありませんがぼんやりと思い抱いてきたことが胸中明確になって来たということは、先の展覧会より更に八年を加齢させてもらった結果の悟り(?)であるのか。いや、そんな大袈裟なものじゃなく、単なる鈍根の老耗の果ての気の弱りかも知れません。としても、まだまだ故郷へまわる六部になってはおれません。第一そんなことをいってると御先祖直政公に一喝されること請合い。やはりいついつまでも勇往邁進の気を奮いたたせる血気が要りそうです。不肖と雖、古兵部公の先縦を慕うならば伏櫪しても志は千里に存る老驥の気迫をもたねばならぬでしょう。
とまれ御照覧 南無八幡
平成17年特別展 よろいとかたなの変遷-甲冑刀剣の諸相-
古い鎧や刀を集めた専門美術館を創るのが若い頃からの夢でした。その夢を、とにもかくにも実現して七年。― 一生懸命やってきたら早くもこんなに歳月がすぎてしまった。開館当初からの目標は、毎年テーマを決めた特別展を続けるということでした。他に仕事を持っている立場上、実現はかなり困難に思えましたが、それもどうやら怠ることなくこなして来ました。ありがたいことです。
ひるがえって考えてみますと、なぜ、このようなボランティアに近い手間仕事に血道をあげて来たのか・・・。個人美術館は世間に少くない。それらの多くはいわゆる成金さんや道楽素封家の十年一日、かわりのない陳列、莵集自慢の羅列です。そこには展示の精神ともいうべき、目的、問題意識などは存在せず、あるのはマニアックな自己満足の開示のみです。
右の様なやり方は楽ではあろうけれど、それではやっていても意味がない。展覧の場には常に収集、研究家としての精神―気迫や情熱―が漲らなければならない。つまりは右様と一視同仁視されるのが厭やさの奮発なのです。そして七年目を迎えました。
― 南無八百万諸神です。
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さて、本年のテーマ、「よろいとかたなの変遷(ながれ)」―甲冑刀剣の諸相―について少し述べます。
甲冑と刀剣という防禦と攻撃の武具は、お互いにそのながれ―形式変化―に歩調を合わすように、同時的に変容をとげています。天然の石材や木竹獣魚皮等で戦いの道具が作られていた時代はさておき、我国に鉄の文明が導入されてから、甲冑と刀剣のスタイルは大きな進化をとげました。たとえば 甲冑の場合、板ヨロイから札ヨロイへ、刀剣は切刃の直刀から反りをつけた鎬造り弯刀への変移です。
実は右の変化の時期が余り明確でない。刀剣の場合は、遺物からある程度推測されているが、甲冑の場合、その変容には相当ミステリアスな闇の部分がありそうです。
これらのことについて、ここで余り詳しく書いているゆとりはありませんが、上代「カワラ」といわれていた着装防禦の道具が「ヨロイ」に進化した頃、直刀の「つるき」(都牟刈‐つむぎ‐の転訛、吊佩‐つるはき‐の約とも)が、弯刀の「たち」へと変身した。その時期は両者含めて奈良期末~平安初中期と考えられます。この時期特定の時間差は相当なものです。逆にいえば、ここのところを押さえることが研究上最も面白い仕事ではないかともいえるのです。
ところで甲冑形態の変遷はさきにも少しふれたように刀剣より複雑です。
上古の「ヨロイ」は板鉄を鋲や革紐でとじた、「板ヨロイ」でした。これが、単純にいってしまえば、可動性の高い、いわゆる「足掻き」のある「札(さね)ヨロイ」に進化した。これが極めて単純化した通説ですが、どうやらまだその間には一段階あったと見るのが自然なようです。
上古の鉄の甲羅のような短甲、あるいは挂甲がそのままあの華麗な大鎧や腹巻(後称胴丸)に変身するわけがない。その中間には大陸の綿甲のようなものが採用されていたにちがいない。有機質の多い布帛中心のヨロイは腐朽して残らない。遺品が無いのはそのためでしょう。勿論このような推論にもいろいろ問題がありますが・・・。(先にあげた挂甲が進化した残影は儀仗用の裲襠〈りょうとう〉のようなものにみることができます。)
刀剣における切刃直刀から鎬造弯刀への変化、甲冑の板ヨロイから札ヨロイへの変容、両者に共通しているのは、「柔軟な動点・力点の移動」です。 柔らかく動き、捌き、しなやかに撃ち、斬る。―これが必然性を生じたのは戦法の変化―戦いの主力が徒歩から騎馬に移ったためだと考えられます。
馬上では鋲止めの甲羅のヨロイではつるぎや弓矢が扱いにくい。徒歩戦でなら直刀も悪くはないが、馬上から斬り落とす場合、反りがないと―つまり弯刀でないと、斬れが悪い―大雑把にいって以上のようなわけあいから、攻撃と防禦の兵器に大変化がおこった。そのもとのはじまりは要するに大陸からの騎馬文化の移入というところに行きつくようです。
以後、長い年月と厖大な血の流れの果てに「ヨロイ」は「具足」に発展変化し、「つるき」から進化した太刀は、風俗的に、「打刀」(かたな)へと移ってゆく。
今回の特別展の開催に当って、ごく簡単に解説的なことを記しましたが、テーマが壮大すぎます。限られた空間しかもたない私設美術館では存分の展示がかないませんが、かねてからの宿願のひとつであり、七周年を記念してとりかかってみました。このような力仕事がいつまで出来るかわかりませんが、武具を日常的に取扱うようになって四十四年。この先は最早、命尽きるまで、といった思いです。
平成16年特別展 新修彦根市史編纂協力記念 藩屏魁将の餘芳 特集・彦根藩井伊家の武具と文書
「藩屏魁将」―何とこむずかしいタイトルと思われるかも知れません。藩屏とはふつうには隔て、とか間垣のことをいいますが、転じて皇室の守護を意味します。井伊家は南朝以来尊皇の志篤く、江戸時代は京都守護の大任に当っていました。下の二文字「魁将」。これは文字通りサキガケをする武将、すなわち幕府先鋒の家格を誇った井伊のそのときどきの当主と麾下の勇将たちをさします。「藩屏魁将の家」という用語ほど井伊家の権威と職責を的確に表現したコトバはないと思います。つまりは井伊家の藩主や重臣たちの、遣された史的遺品―餘芳―を今年度は特集というわけです。
思いかえせば、井伊家の古文書史料類を蒐めたり調査をはじめてから、四十年余りたちます。貴重な書き物類が東西に散佚したり、甚しい場合焼却されたりするのは哀しく淋しかった。残念無念―まさにそんな切歯扼腕の思いでした。
「力及ばずとも、たとえ一点、一点ずつでよい。手の及ぶ範囲で蒐めておけば、いずれは郷土の歴史に役立つときがくる」
史料の蒐集と保存、それに研究―この根気の要る、栄えのない、永い旅路の牛歩に耐えられた理由を無難にいえば、失われる郷土の歴史に対する愛着と郷愁―といった月並みな綺麗事の表現になってしまうかも知れません。要は、単的にいってしまえば、そんなよそ行きの使い古された飾り言(ごと)はいらない、あったのは「好き」の心ひとつです。そしてただ「一途」にやれば、そこにある種の精神―志―といったものがみえてくるのではないか。
『彦根市史』が新修のカタチで再編纂に入ったのは平成六年。暫くして市史編纂関係の方が来訪され、蒐集史料の閲覧使用を依頼された。時節は漸く到来したのです。
この時が来るまで、実に長い歳月がかかった。古文書収集の大家中村直勝博士の文章の中に、古文書を買い入れ、慈み抱いて、世に出すまでの期間を〝…年の胎児〟と表現してあったような記憶がありますが、まさに四十年の胎児が呱呱の声をあげるときが来たのです。古史料が個人的に研究されるのも勿論結構ですが、歴史的に重要なものは公的に利用されてこそ本来の意味と価値を発揮するものです。この時ばかりは、ひたすら長い沈黙を忍び送ったあれやこれやの史料たちが、筐底から立ち上り、私にむかって一斉に拍手哄笑したような気が、たしかにしました。彼等の多くはいま『新修彦根市史』の中にたしかな地歩を占め、永久の命をとどめることになりました。これを記念した特集展を開催するのは、美術館の真似事をしている私にとっては一種の義務でしょう。本展開催の趣旨は、ざっと以上のようなところにつきます。
しかし書いたものばかりでは固苦しくて、一般の人々には窮屈すぎる。子供にでも直接的でわかりやすい武具甲冑も必要でしょう。殿様の愛刀や井伊の赤備もいろいろ用意しました。手狭な会場で思うような展示ができませんが、どこかに蒐集と研究のココロザシのようなものが滲みでていれば、主催者の本懐これにすぎるものはありません。
ところにつきます。
しかし書いたものばかりでは固苦しくて、一般の人々には窮屈すぎる。子供にでも直接的でわかりやすい武具甲冑も必要でしょう。殿様の愛刀や井伊の赤備もいろいろ用意しました。手狭な会場で思うような展示ができませんが、どこかに蒐集と研究のココロザシのようなものが滲みでていれば、主催者の本懐これにすぎるものはありません。
平成15年開館5周年記念企画特別展 武門のステイタス 武正と異風と-優甲名刀にみるさまざまなる意匠-
武士(もののふ)の世界は、矜持(プライド)でなりたっていたといっていいでしょう。矜持―というのは、利害得失をヌキにした自己責任能力です。それは「義」といってもいい。「義」というのは、たとえると〝こんなことをすれば自分は損をする。まわりや仲間にもまずい。だから本当はしない方がいい―と頭でわかっていても、断じて行うことが正しいことであれば、大勢に反してでもあえてそれを行う義務的行動力です。ジェントルマンシップということばにおきかえても気分的にはいいかと思います。「武士社会」は、いってみればこの痩我慢にちかい滅私没利的精神を身分が高ければ高い程濃厚に保持すべきものとして教育されました。そして、その表徴(シンボル)とみなされたものが、表道具である「ヨロイ」と「カタナ」です。
武士本来の正装、つまりハレの装いである鍬形打った兜に大袖附の大鎧や胴丸、金銀装の刀剣…。これらの道具は下級の士には無縁です。上級の武士が、このような綺羅を飾った武具を用いることを許されたのは、もののふとしての矜持を損すことなく、全うしなければならないという―責任義務に対する反対給付―としてであったのです。
一方、右にあげたような式正のヨロイやカタナに対して、異装異風の武具があります。植毛の兜や、仁王の体形を打出した胴、あるいは鍔を省略した刀の拵等々。
しかし、よく考えてみれば、これらストレンジな武具における装いも、式正なフォーマルなものに対峙するアンチテーゼなものではなく、武士社会の矜持に裏打ちされた特権意識のデフォルメに他ならないことに気付かされます。換言すればもののふのプライドの更なる強調・明確化―です。
くどいようですが、武士と一口にいっても格禄がなければ、美麗な甲冑や刀剣も、人目をそばだてる異様な装いもできません。もののふとしての全ての面における矜りのつみかさねの質量と圧縮度―むろんこれらは一代や二代の侍ぐらしで果たされるものではありませんが―それらの目に見えぬ累積が、ハレの装いの厚薄軽重を決定づけたのです。「武門のステイタス」といった意味がここにあります。ハレの装いとは要するに「死に装束」です。もののふの花道は「天晴なる死」にある。武士はおのれの矜りを世間に強くアピールし、アクセントづけるため、独自に装って潔く死に即く。哀しいけれど理想的な矜持の結末です。
式正といい、異風といい、そのカタチのおもてづらだけをみていると、ただ「正」から「奇」への変化だけにすぎません。しかし以上のことを考え、よくみつめてみると、それらの内奥―面頬の奥や、刀身を収めた鯉口から、声にならぬもろもろの叫びや呻きもきこえてくるような気がするのは私だけでしょうか。
四十五年武具に触れてきましたが、今回はそれらもののふのいのちの道具を数多く取り聚めて、改めてかれらの発する内奥の声の正体をさぐってみたいと思うのです。
平成14年特別展 NHK大河ドラマ「利家とまつ」協賛 利家と同季の将領たち-ゆかりの刀剣甲冑展-
前田利家という武将は不思議な男です。もとはといえばカブキ者のはしりのような武辺一辺倒の荒くれ者、戦国の天才信長に引き立てられとにも角にも一城の主とはなりました。ここまではそれなりの実力だったといえましょう。ところが信長が殺され秀吉に属するようになってから運命が大変転、一時的ながら徳川家康と天下を二分して争う程の大モノに成長しました。身内の少い秀吉と仲が良かったこと、猛勇の裏にある実直性―これらが利家を大きくしたゆえんですが、単にそのような良性的律儀さだけでは加賀大納言百二十万石の礎は築けなかったでしょう。一口にいえば戦国人には乏しい有徳性―人徳―がつまりは利家を大モノに仕立てあげたのです。実際賤ヶ岳の戦いでは盟主の柴田勝家を裏切っています。しかしその事は殆ど語られず、利家の履歴の欠点とはなっていない。実直を表看板にした行動の裏にある狡智は実はなかなかのものだったのです。このあたりが利家の魅力であり、不思議なところです。せいぜいが十万石程度の大名どまりの男が戦国の棹尾を飾る覇者の一人となっ
た。この不思議を考えることは歴史と人間の運命を考える上に実に大切なことだと思います。
このたびはそのあたりのことを頭に入れ、いろいろ考えたくて特集を組みました。当館所蔵の利家の愛刀やよろい、それに係る前田家重臣の甲冑や同時代の武具を観て、共に考えてみませんか。
平成13年特別展 -開館3周年記念-武の匠たちが支えた不惜身命の世界 特集-由緒を誇る名刀優甲展
武士(もののふ)の覚悟は、有事断然、一息截断の精神の持続にあります。この揮発度の高い緊張を継続的に保持することは言うは易いが実行は至難です。そこに要求されるものは、生死の事大を識り、迅速に逼る無常に泰然と咲って耐える強靭な未練なき心でした。
もののふにおける死を覩ること帰するが如き精神に培われた所作―振舞に不可欠の伴侶が刀剣と甲冑でした。刀は士道に徹し最期におのれをたてるための死に狂いの道具であり、生存を期するための凶器ではなかった。甲冑もまた、もののふを存分にするためのハレの死装束だった。
この故にこそ刀剣や甲冑は武士の表道具と称されたのです。それらのおとこの道具をまた異なった意味で命期して造り続けたのが刀工や函人と称われた甲冑師たちでした。 彼等はいわば士道のバックボーンを陰で支えた功労者といってもよいでしょう。
このたびは当館開館三周年を記念して、これら誇り高き名工たちが丹精こめて作りあ げた由緒ある名刀・優甲の数々を聚飾することにしました。この機会にもののふ精神の 粋美をいくらかでも感得していただけたら展覧の素志は達せられることになります。
平成12年特別展 特集・日本の赤鎧 朱き鬼たちの聚宴
朱(赤)色の甲冑が戦場に現れたのは、室町時代の中頃です。朱の色は目立ちます。当然臆病者は使えない。強者にとってのみ、格好よく冴える色なのです。つまり逆にいえば、朱の色は武功を証明するライセンスカラーといえます。
戦国時代になると、有力大名や国人衆の中に、配下の部隊あるいは軍団全体を朱色の甲冑で統一するケースがでてきました。武田信玄麾下では飯冨兵部の一隊、それに上州先方の小幡信真の一軍など。また小田原北条家も赤甲部隊を拵え、信州の真田も赤隊を編成したといいます。いわゆる「赤備」の発生です。この赤甲の集団部隊である赤備は、秀吉による天下統一の気運が高まった桃山時代に入ると、徳川家康配下で最大の軍団を率いる井伊直政隊に集約的に統一されました。「井伊の赤備」がこれで、井伊家を指して、アカオニというのは、この赤装の甲冑カラーから来ているのです。
この赤備というのは、その始源が部隊の勇功を主公が認めたところから来ているものですから、他の一般的な部隊や侍が勝手に朱色の甲冑を用いることは許されませんでした。個人的にこれが許されているような人物はいずれも公認の豪の者ばかりでした。これは単に甲冑の色柄のみに限りません。侍の表道具である槍にも準用されていました。皆朱の槍などというものがそれです。たとえば上杉家では皆朱の槍は名誉武功の者にのみ限られ、大変にうるさいものでした。これを新参の加州浪人前田慶次郎(この人もまたとびっきりの豪傑ですが‐甲冑出展‐)が勝手に用いたことで、逸話的な事件がおこっています。ことほど左様にもののふにとって大切な色である朱の武具、とくにその代表である甲冑について、現在ではその重要性を知る人は少いようです 。そこでこのたび当館では、戦国時代以来、もののふの夢と憧れの道具であった朱具足を特集し、男が本当のおとこであった時代の、彼等のいのちのうたを偲ぶことにしました。これはむろん我国初の試みで、天下一赤鎧の痴れ者である館主の自信作です。
平成11年特別展-開館記念特別展-貴人・名将の刀剣甲冑
鎧・兜を見続けて三十五年余りにもなる。いつの間にかかれらに対する独自の視点が決まってきた。単なる好悪の感情とか、製作上の巧拙精粗によるものではない。自己の歴史研究は勿論、文化、芸術等、あらゆる人生体験によって造られたおのれの視点に、それは容れられるものか、そうでないか。つまりひとつの「自己信念」というものをフィルターにした視点である。その「信念」なるものが、思うように説明できない。ヘタに文字化すると随分気障な言い廻しになってしまうおそれが多分にある。
郷里の彦根にむかし造幣局があった。剣道が盛んで道場もあった。たしか中学初年生の頃であったと思うが、そこへ山岡鉄舟の門下という老剣客が招かれて来たことがあって、見に行ったことがある。いかなる機縁か忘れたが、当時彦根城近辺では時代劇映画のロケが頻繁にあって、そういうものも授業を抜けてでも可能な限り場を外さずに観に行っていたから、老剣客のことも情報には敏かったのだろう。
老剣客の着用している道具は何の変哲もない黒胴であったが、竹刀が太く、そのため少し短く見えた。その姿で局員や来会の人と立会うのだが、老剣客の竹刀は遅かった。今から思えば若い元気のよい四、五段には勝てなかったにちがいない。しかしその太刀捌きにはえもいわれぬ雰囲気―品位―があった。ひょっとすると実戦経験の剣士の剣の遣い方はあれでないといけないのではないか―と思った。質朴であるが重厚で、動きは遅くみえるが当たれば必殺の撃ちにちがいない。その後社会人になってから大津の道場で武徳会範士の立会いもみたけれどそれは竹刀の曲芸で、迅いばかりで品格がなかった。今尚その範士の華やかな赤胴が軽薄そのものの印象で残っている。
私の甲冑武具に対する理想は、かつての老剣士にある。それは今まさに私の胸の中でひとつの固い信念となっているのである。とも角大急ぎで初年度展覧会の準備をしたが、選んだものは私の右のような信念に叶ったものである筈である。このことわかっていただけるかどうか。