井 伊 美 術 館
当館は日本唯一の甲冑武具・史料考証専門の美術館です。
平成29年度大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」の主人公直虎とされた人物、徳川四天王の筆頭井伊直政の直系後裔が運営しています。歴史と武具の本格派が集う美術館です。
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※当館展示の刀剣類等は銃刀法に遵法し、全て正真の刀剣登録証が添付されている事を確認済みです。
井伊家関係資料
井伊家歴代の数え方について
彦根藩の場合
従来の彦根市史関係の叙述では井伊家歴代の数え方をまちがっています。佐和山に封ぜられた井伊直政を初代とし、13年もの間藩主の任にあった直継を二代とせず、その間の年月を無視して実は三代である直孝を二代にしています。つまり江戸時代の御用学者によって作られた井伊家系図による二代直継無視をそのまま現代も続けているわけです。在位数十日の直恒や直禔が代数に含まれているにもかかわらず直継が代数から除外されているのは意識的な作為としか考えられません。これは実証を無視した歴史学で、現在の歴史学としては明らかに間違いです。客観的な歴史認識に基づいて代々の改正をするべきです。当館長は『井伊軍志』(平成元年・彦根藩史料研究普及会刊)等で早くからこのことを指摘し、近年一部では改められるようになりましたが、今尚旧来の表記を採っている関係者が少なくありません。速やかに全面的改正がなされるべきです。
当サイトではあく迄正しい井伊家代数を採用して記述していますので、従来の代数とは異った表現になりますが間違いではありません。御注意下さい。
与板藩の場合
与板藩は彦根城から安中へ、更に西尾、掛川と転封を重ねた直継(直勝)を初祖として代数を数えています。与板に移ったのは五代直矩の時ですが、幕初の先祖を初代とする系統的思考を採っています。
(井伊美術館資料管理部)
有栖川宮幟仁親王第二王女 糦宮・宜子王女の嫁入持参の手道具 有栖川宮幟仁親王の姫君が井伊直憲に輿入れしたときに持参した嫁入り道具で、井伊直愛(旧彦根市長)より村岸健資氏に贈られたものです。 有栖川宮家のものは関東大震災で焼失したものが多いため貴重な品です。 (寄託調査品) | 井伊直興念持弁財天(写真資料寄託)井伊直興念持弁財天(写真資料寄託) | 井伊直政知行宛行状慶長6年勝小源太宛井伊直政知行宛行状(慶長6年勝小源太宛) この時期、井伊直政は関ヶ原で受けた鉄砲傷が悪化し署名も不能の状態でした。老臣の西郷伊予守と鈴木石見守が連署して、知行保証し直政の意思代行していました。その故にこの年記の頃の宛行状は井伊直政の名を冠します。 (寄託調査品) |
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井伊兵部少輔直朗御書(与板藩第10代)井伊兵部少輔直朗御書(与板藩第10代) 直朗(なおあきら)は与板藩歴代中最も有能な人物で、幕府若年寄をつとめました。本状は歴世の重臣であった小野源蔵に先代同様の知行と役職を保証した書状です。 (最近発見の史料で、誤って上杉家の臣色部氏の文書と間違われていたものです。) (寄託調査品) | 与板城地変更に関する幕府内許達書与板城地変更に関する幕府内許達書 先代直朗の宿願であった与板築城について、その意をついだ直暉による与板村との替地の預りにつき幕府が内許を与えたもので、本来は蒲原郡石瀬村の方に築城の予定でした。この間の消息について従来史料がありませんでしたが、その事情を示す貴重な史料です。年時の部分を欠いていますが、文政の初年、大体三年頃と推定されます。 (寄託調査品) | 井伊直弼自筆艶書(村山たか宛)1井伊直弼自筆艶書(村山たか宛)1 名もたかき 今宵の月は みちながら君しをらねハ 事かけて見ゆ 当時の風儀からみるとかなり強烈な艶書というべきもので、直弼の女性にかかわる恋の手紙としては新発見、唯一のものです。柳王舎主人という雅号からその時期は天保十三年過ぎ、たか女と別れて間もない頃のものと思われます(天保十三年冬には側室静江ができます)。まだ完全に別れきらない状況で、習いごとの費用の面倒もみていたようですが、恋歌を贈りどうも淋しくてはじまらないと嘆いています。 持病の頭痛がひどく、文章中の二字は一応「困苦」と読みましたが「田苦(臀苦・・・痔の隠語)」と解釈した方が文章の前後からは自然です。直弼は痔にも往生していました。茶席に座ることも大変苦痛だったようです。 いろいろ持病に苦しみながらも、女だから慎んで生きるように心配するなど大変気を利かせ、さらには名月によせて彼女を慕う歌の中に「たか」の名を読みこんでいます。なお未練十分の直弼の心情が切々と伝わる書状です。 2へつづく |
井伊直弼自筆艶書(村山たか宛)2井伊直弼自筆艶書(村山たか宛)2 かなり周到に準備された内容ですが、文字は大変癖字の、本人も書いているように乱筆です。若い頃の独特の「痩せた」文字です。直弼は晩年に向かうほど、「肥えた」文字へと変化していきます。 時の風習や、特に直弼の立場身分柄から考えて宛先はわざと明らかにされていません。しかしかなりなじんだ間柄で、別れて間もない状況、そして近況の伝え方、歌に女の名をよみこんで恋心を訴えるなど、受取人はたか女以外に考えられません。たか女への手紙は今のところ残存しません。その上艶書なので、直弼の性格を知る上でこの上ない貴重資料といえます。 (寄託調査品) | 井伊直安二字書井伊直安二字書 井伊直安(井伊直弼四男、越後与板藩最後の藩主)が七才で書いたという閑山の二文字です。 おそらく父直弼の膝下において手習いの仕上げのような形で書いたと思われ数点存します。 因みにこの年直弼は大老となって幕末志士の断罪にふみこみます。幕末大動乱の幕が切っておとされる直前に息子が「閑山」とはまこと皮肉です。 朱文で直安と彫った小印が捺されていますが、字体の意匠は父直弼でしょうか。父子の情愛から歴史の浪漫を感じさせる資料です。直安は文画に長けた人ですが、七才とは思えぬ雄渾な筆致です。 (寄託調査品) | 徳川秀忠黒印状 (井伊直継宛)徳川秀忠黒印状 (井伊直継宛) 井伊兵部少輔(直継、彦根第二代藩主、与板系安中藩祖)から端午の祝儀に帷子等を贈られたことに対する礼状。文中の酒井雅楽頭は酒井忠世(秀忠附筆頭年寄)。本書は諸史歴から推すと、直継が彦根藩主であった慶長十二年以降、安中へ移った大坂陣後の元和末年の間のものとみられます。井伊直継に係る直接的文書が極めて少い現今、貴重な資料の発見といえます。 (寄託調査品) |
井伊直継知行宛行状(慶長九年九月十一日付)井伊直継知行宛行状(慶長九年九月十一日付) 直政の嫡男・直継(直勝)は彦根藩第二代藩主、のちに安中藩初代藩主となりました。 これは直継が家士松伊(松居)十三郎へ三百石の知行を与えた時の証文です。 慶長七年(寅の年)、初めて行われた検知の規矩を以て三百石を保証するというもので、数少ない直継の史料として貴重です。 (寄託調査品) | 井伊直孝寄進状井伊直孝寄進状 愛宕山福寿院宛 (寄託調査品) |