井 伊 美 術 館
当館は日本唯一の甲冑武具・史料考証専門の美術館です。
平成29年度大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」の主人公直虎とされた人物、徳川四天王の筆頭井伊直政の直系後裔が運営しています。歴史と武具の本格派が集う美術館です。
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検分覚知のこと
一、玩物喪志(はじめに)
世に玩物喪志というコトバがある。ある物品に惚れて一生懸命気を入れて、夢中になってしまう。結果、己れを見失う。そんなわけだから、もし志という程のものがその人にあるとしても、心の主体をモノにとられてしまってまるでフヌケになってしまうからダメである―というようなことである。有名なことばだから、わざわざ解説する要もないが、意味としてはそんなところだろう。
この玩物喪志を最も典型的に現前する世界がいわゆる骨董―古美術の世界である。一流の好き者(数寄者ではない)、道の痴れ者でも一度は必ずこの門を潜ってその奥にある伏魔殿に沈潜しなければならない。沈潜まですれば上出来であって、大抵はドボン斉の土左衛門、そこまでである。ハイそれまでヨの方が身の程の救い難さに気づかず倖せで終る。つまりはとても浦島太郎のような生還は覚束ない。
逆に太郎となって夢がさめると生きて還っても地獄である。気や心、欲得もろもろの思い入れを、くらしのくさぐさと一緒に溜めこんできた玉筐をあけてみたら中からパッと白煙り―気がつくと周囲の気色は悉く変り、見るも無惨なおのれの姿―文字通りの「玩物喪志」が現前する。なあに、当り前のことなんだ。世の中、真物珍品の希品が有り余って所在するわけがない。ガンブツギブツ、二等三等品に入れあげ、夢をみている内が華というものだ。その夢路を辿る迷い道の案内をするのが文字通りいわゆる入門書、ガイドブックの類である。中でも本書のテーマにとりあげた甲冑武具類に係るものについていえば、真面目、本格的なもの皆無とはいえないが、適当にいい加減、調査や考査不足をそのままに、誤謬平然たるものが多い。
厳島の伝源為朝所用の鎧に附属する厳星兜
(山田紫光翁のスケッチ帳より)
二、こけとゆめものがたり
それはなぜかというと、いわゆる「古い人々」が都合よく玩物して得志したと思いこんでいるものを鵜呑みにし、無責任に伝道するモノ書き屋さんがいるからである。かれらはそのモノと善意不知の人々の間に介在して、先人の志の承継者のごとく振舞っているが、この徒輩がその道を更に誤らせる。御用学者、御都合主義の研究評論家が自称他称を含め多いのはこの世界も同じことである。ヨロイやカブトの歴史にまつわる夢物語、伝来伝承の誕生と放任は絶えることはない。
殊に武具甲冑の遺品に虚仮や夢譚が甚だしいのは、物件が人と歴史の過程そのものに時代の垢をつけて今そこにあるものだから、何か史的事実に係る人物―英雄豪傑あるいは著名人の所用所縁に仮託したい誘惑、あるいはされ易い弱味があるからであろう。この仮託というのが「夢とロマン」という虚構である。虚構でもいつの間にか劫を経てしまった化物もある。この化性を百パーセント信じ喜んでいる人々がどれ程夥しい数になるか。
上手く表現できない。はまりの悪いまずい文章である。何やらやたらややこしい言いまわしになったが、実際にややこしい世界のはなしだから、この表現もその雰囲気をはからずも漂わせることになる。簡単にいえば実は一行ですむことである。要するにニセモノも怪しいものも、真物と誤解されているものも世間には山程あるから気をつけなさい。騙されるなということである。本も活字も根本的には信用してはいけないということになる。しかし、こうサラリと書くと至極当り前で何てことはなくなる。それでは曰く言い難いニュアンスが隠れてしまう。
三、権威の害毒
そんなわけで、ヨロイやカブト類のいろいろ訳有りそうなところを本書では書いてみた。ここには従前から疑問視されていたものは勿論、新に取り上げて自分なりに正しいと思った解釈を施したものも少なくない。
絵画や彫刻、一般的な美術工芸品における価値判断の基準は「美」にある。美は絶対である。ところがこの絶対というのも実は抽象的で言いだしたら厄介で簡単なことではないから、標語を掲げるにとどめるが、その「美」ということに関して言えば、甲冑武具―即ちヨロイやカブトにこれはそのままに通用しない。
むしろ甲冑の美は第二義的に扱われている。近頃とくにその傾向が著しい。デフォルメされた変り兜など、鉄製だとその堅牢さが重宝され、醜悪さは一切指摘されることなく、熱狂的に愛好蒐集されている。そして問題なのはその大抵が近年の似せ物、あるいは想像加工品だということだ。これは常時反復継続されているといってよい。
真物をトレースした忠実な復原品ならまだ赦せるが、本歌そのままだと「新物(あらもの)の写し」ということで高く売れないものだから、余計な意匠に誇張が加わって弱い線と脆い形をもった、本当の時代には存在しない卑しい甲冑が生まれる。これが事情をよく知らない一部の外国人に競い買われるようになって、いつの間にか武具の市場には真物が姿をみせなくなってきた。武具におけるグレシャムの法則である。異形の兜、総面などは三、四十年も経つといい時代がついてくる。その上最近の新作は錆付けが大変上手くなって甲冑専門鑑定家を自任するグループの中には簡単にひっかかる人々がいる。新作の総面が看破できず、最高位の指定書を発行したというケースもある。これは贋作に正真の認定をして、保証をしていることになるから困ったことである。そしてここで問題にしなければならないのは作者に偽物を造る意思はなく、あく迄自分の作品を作ったにすぎないのだが、証書が付くことによって反って贋作になってしまうということだ。古美術商は勿論、同じ武具といっても畑ちがいの刀屋さん達の中にもはまりこむ人が少くない。この場合、「美」は論外である。こういう状況を先に言ったような写真を中心にした半端な甲冑入門書が更に煽りたてる。
このことは一般の売買による流通品だけではない。神社、仏閣、あるいは公的施設に収容展示されているものにも、怪しい不思議なものが存在し、存在し続けている。知るも知らぬもそこは不可蝕領域である。このアンタッチャブルな世界に果敢に挑戦し、果せなかった斯界の大先達「山上八郎」はその愛すべき型破りの言動が悪意過大に喧伝され、奇行変人の名のもとにその真面目な批判は黙殺された。そのあと、かれの在野批判精神の志をつぐ甲冑武具研究者は誰一人として出てはいない。
時代のものは時代の約束事をクリアしている。歳月の卒業証書がある。それが読めないとそのものの仕分けは叶わない。表題に検分覚知と書いた。検分という熟語はない。見聞が正しいのであるが、要するに監察の意識をもって調べ分ける。古い伝説、狎れ合い、事勿れ、先輩後輩等の人間関係、もろもろの混沌がわからないものを適当に誤り、更にわからないまま社会に通用させてしまうということは常にあり得る。四海温順波浪静謐であれば、臭いものの蓋はひっくり返ることもなく、ここかしこにある龍宮の権威は保たれるのである。龍宮を現実の天日に曝してはならぬタブーは守られる。
検分に本気でとりくみ、覚知することはまずむつかしいことである。甲冑武具という日本の古文化財、古資料に係る貴重品に、浮世で附与された余計な冠や衣裳の間違い、あるいはそうではないかと推定されることを限られたスペースと時間にあれこれ検証、挙示することは至難である。それを関係者や一般の読者に了知してもらうことは不可能に近い。要するに労多く功少く、勿論酬われるところも期すことはできぬ。得にならぬしごとである。しかし、この厄介な仕事はいずれ誰かがやらなければならぬことである。誰かが先駆して槍を付けなければならぬ。
四、うるしの納得
ところで甲冑における美とは何か。
勁直な線をもつ朴強そのものの平安鎌倉前期の大鎧か。またはその末期から南北朝にわたる絢爛たる祭礼風流の大鎧か。何はともあれ、その粋美の極みは大鎧とされている。いずれにせよこの期以降にあらわれる胴丸腹巻―従来の称に従う―等中世の甲冑がヨロイカブト類の美の古典的典型とされている。厳島や浅間神社等に宝蔵される大鎧、広告的表現を藉りればたしかに甲冑の美を余りなく表現している代表ということになる。これらの時代の流れの中世の遺品とされるものは指定物件も少くない。もう故人になったある甲冑師が某神社にある甲冑について
「あんなもの何が○○か。小札なんか九十パーセント以上新しいものに替っとる。連中はようわからんから○○なんかに指定しとるがひどいもんよ」
○○というのは指定名称である。
「―何じゃかんじゃいうて権威ふりまわしても、まちがっとるものはまちがっとるのじゃ。たとい皆が承知してもわしゃ認めん。ありやァまるで明治か江戸の複製よ」
そして彼が次に吐き捨てるように呟いた言葉は記憶から離れない。
―ウルシが承知せん、ウルシがよ。
いっていることは漆の時代のサビがまるで足らない。髹漆施工の時代が若すぎるということである。六百年、七百年も経つとウルシの色肌がモノを言う。時代を証言する。それが前にいった歳月の卒業証書だ。
彼はそのかみ審定に係った人々の無知蒙昧が世を誤らせていることに腹を立てて愚痴をいったのだが、「ウルシが承知せん」というのは私の知る限り彼の生涯における最高の警句名言であった。
たとえば甲冑の代表とされる大鎧の内著名なものには必ずそのものに具えられた美が典型的に既定紹介され、更にそれに歴史と有名武将の所用の旨が付加されている。美に対する解釈はおおむね観念的であり、着用所伝はメルヘンである。
紋切型の定型熟語が虚構の中にちりばめられ、肥大化させられた伝承の中を、着用武将は今に蘇る。馬蹄轟かせ、鋭い弓箭の音を放つ。まさに思う存分にひろがる空想の芽に、知識は趣味の範囲を出ない文学者や作家が罪な水飼いをする。虚構の嫩葉は萌え、真実の樹木を育てる。
次項ではそのようなものの典型的な述話を少し長くなるがとりあげる。
五、寺田透氏「為朝の鎧」をめぐって
○伝来の鵜呑みによる的外れの批評―信仰と実証
フランス文学者で文芸批評家でもあった寺田透氏には日本の佛教や美術に関しても独自の視点をもった記憶すべき評論が多い。優れた知識人であることは今さら私の説明を要しない。そのひとつに「為朝の鎧」(『文芸』昭和五十二年一月)という日本の甲冑に係る七~八枚程の評論がある。この中に少し心にかかるところがある。
まず織豊時代の甲冑における大袖のない、鎖を編んだ長手袋のような籠手がダラリと垂れ下った(氏の表現による)具足の小さな兜の下にある面具について
・・・髭など生やした虚仮(こけ)おどかしな頰当などがついているのを見ると、大人気もなく胸がむかついて来る・・・
私には何故に胸がムカついてくるのかわからない。寺田氏自身もその前に「大人気もなく」と前置詞を置いてくるので、多少幼稚っぽくて気がひけるのであろうが、氏(以下そう称する)が吐き気を催すほどの嫌悪を感じるのは、そこに実質、実体がないからであろう。あんな何の役にも立たぬ髭をつけさせ、歯など剥いた脅迫の相を作ってみたところで一体何になるのか―というのは現代人の感覚、視線による唯物的な仮借の無さである。何事にも理論的な数式が立たないと納得できない頭脳だけの秀才らしい余裕の無さを感じる。あの面頬当の内側には女顔のしかし勇気に溢れた若武者があるかも知れない。恐怖に戦く虎髭のオッサンの蒼い顔がかくされている場合もある。しかし頬当の外面は何も表情を変えない。怒りの表情を崩さない変らざる顔貌が戦陣の場においていかに必要なものであるか。頬当をつけると、これは着装したものでないとわからないが、実に窮屈になるけれど、目の前の世界と隔離された安心感が生まれる。そして生死を一瞬にわかつ実戦の首取りの場では、あの髭面は虚仮おどかしには決して映らないのである。
逆にいえばその姿はもののふの理想の体現だ。仇おろそかに決して虚仮おどかしなどとはいえない。これがわからない者は敵間いまだ二十間も距っていながら必ず腰を抜かす。おのれの反吐にまみれるのである。
更にこんなくだりがある。
・・・漆で塗固めた紙にすぎない鍬形代りの羊歯(筆者註①以下同)だの、鹿の角(②)だの、三宝荒神(③)だのを薬袋(やくたい)もなく兜の飾りにつけるやうになったのはこの時代である・・・
①は家康所用という大黒頭巾の兜の羊歯(歯朶)の前立てのことであろう。
②は本多平八郎(中務)忠勝の鹿角の頭立形式にちかい脇立。
③三宝荒神は古頭形兜に被せられる張り懸けの荒神の顔。上杉家伝来として近代有名になったもの。
①の歯朶は裏白である。常に緑が枯れず、葉が細く繁って栄えるところから慶祝の意をもって正月の鏡餅の飾りなどに用いられた。前立に用いられたのも同様の意味に因る。この素材が金属でなく紙のような粗弱なもので作られていることは氏にとって軽侮の対象になるらしい。
②の本多忠勝所用といわれる鹿角の立物も原材は紙である。三宝荒神の象形も紙ないし革で作られてある。本多の鹿角の兜と、上杉の三宝荒神の兜については改めて別の観点から後述しなければならぬが、つまりはこのようなモノ(・・)を氏は薬袋(やくたい)もないものとし、かかる装飾物を甲冑に施すようになった戦国末桃山ひいては江戸の甲冑の時代を虚仮だとする。薬袋は益体の宛字で、役にも立たぬということ既に御存知の通り。
氏、寺田はこのようなモノを近代科学の常識のみで受付け処理することしかできないらしい。モノには可視的な科学的実効効果がなければ、それは単にヤクタイもないシロモノにすぎないとする。当然ながらそれらのモノにある精神性は認めない。
たぶん氏は利休の茶のもろもろは認めるだろう。かの有名な朝顔の一会など快心挙手の茶事と称えるだろう。しかし、あれは本音のところ虚仮である。虚仮を以て天下の秀吉を制したのである。利休の天下権力に対抗した心意気の典型だ。意は紙の鹿角と同じところにある。
更にこのことは次のような文章に発展する。
・・・具足の胴を諸肌脱ぎ、片肌脱ぎの胸のやうに造ったりそこに肩から大きな数珠をかけてみせたりする意匠も同じ時代のことで、単に実戦上の必要といふことでは説明のつかないものがそこにはある・・・
ここにもいくつか指摘すべき無知による独断的錯誤がある。
モロハダぬぎ片肌ぬぎの具足胴の形式は時代風俗でありもののふのシャレである。先にも言った心意気でもある。そこに威迫の意もあるが、本音は余裕の振舞いだ。狂気をひそめた遊びである。このところが、アタマでなく、ココロでわからないと、「現代の知識」という唯物的権力が先行して、言っている本人は勝手だが何せオピニオンリーダーのいうところだから後人を誤る結果になる。
肩から大きな数珠を斜めにかけるのは、着用者本多平八郎忠勝の甲冑像に因んだ現今の想像による創作、演出である。見ての通りである。かのように仮想してロマンを再現しているだけだ。忠勝が戦場で常にこの格好をしていたという保証はない。おのが甲冑像を七、八回も書き直させたという凝り性の男のパフォーマンスである。しかしその底にある精神はそのまま厭離穢土欣求浄土、往生安楽である。信長が愛誦したという「死なうは一定」というフレーズの裡には、そうはいいながらもそのことばの裏におのが生への未練に対する自己説諭の匂いがある。しかしここにはそんな貴種特有のディレッタンティズムはない。それゆえにこそ当時のもののふの威儀装飾には必ずしも実戦上の実用面を求める必要性はなかったのである。片肌脱ぎの胴や数珠に即物的な実利性を捜し当てて説明など求めてはいけない。
強制的にいえば、それは一種の信仰である。形而上的なもので実証ではない。江戸の幕府が倒され、維新になって漸く信仰は認識を要する実証に代った。仁王や片肌脱ぎのヨロイの意匠は、理屈の要らない、理不尽で勝手な自己表現が許された古き良き時代の産物である。物事の理解を実証科学といった煩瑣な公式に当てはめなければ前へ進めない我々は、信仰や形而上的思考と訣別したのが実はほんの一世紀少し前のことであるということを再認識する必要がある。
つまりそこにあるのはストレートな南無阿弥陀佛だけである。書いた人はこれが承諾できないから更に次のようなことをいわなければならない。
・・・しかもそれが例外なしに名のある武将の遺品だといふことになると、多くの場合、足軽たちに比べれば安全なところで、かれらはあんななりをして采配を振ってゐたのかと思はれ、愚かで陰惨な日本の歴史の一節を見せつけられた気にさへなる・・・
例外なしに名のある武将の遺品とあるが、これは解説の無批判な請け売りである。歯朶はともかくとして謙信の三宝荒神も本多忠勝の鹿角も片肌脱ぎなども着用者特定の実際的根拠はない。それについては次項でのべるが、仮に彼等のこととして、安全な所で采を採っていたと決めつけてしまっているのはまことに失敬なはなしといわなければならぬ。二〇三高地の総司令部の将官たちでさえいつも安全な場所にいたわけではない。ましていわんや戦国の名将たちに対してこの言たるやである。そして情けなくも愚かで陰惨な日本の歴史の一部がそこに顕現されていると結論する。何が愚かで陰惨なのか。歴史は常に左様である。何をどう飾ったところで人類の歴史は大簡(おおまか)にいえばやはり愚かさの連続の筈だ。だから甲冑を含む武器類の全ては人間たちの争いによる殺戮に備えて常に存在し発展をくり返す。陰惨と愚行は過去の歴史の一節にとどまりはしない。小才子の賢(さか)しらは小は人心を惑わし大は国を誤る。識者は論のための論には欺されないが。家康や謙信はもとより本多忠勝も、攻守時を心得た兵略の専門家である。最前戦で干戈を交えることも、退いて帷幄に倚几する時もある。進退の達人に対して素人がわかった風な偏見でものをいうべきではない。
鹿角の兜を具す岡崎藩主本多忠明所用の具足。
本文中の鹿角の兜は、この祖型となった忠勝所用のものである。
○遠州の胴具足
こういった氏の甲冑における感情的虚仮威かしの批判は、中世大鎧の典型のひとつである表題の「為朝の鎧」を際立たせる為の伏線であるがそれは「小堀遠州所用の胴具足」に至って極まる。
・・・その具足に、力があるとは言へない。造園や建築の大家でもあつたその茶人としての好みさながら、それは一途に凝つてゐて細く、暗く、窮屈である。
かういふ風に凝つた窮屈な一面を拭ひきれない洗練と、中身の乏しい虚假おどかしな装飾性、といふと、それはもう江戸文化全体の特質の一つとして僕にいきなり反作用を起させるものを持ち・・・
この胴具足(わざわざ「胴」という字を足しているのは解せない。なくもがなである)は突盔形の兜を伴った縹糸威本小札の具足である。いつの頃か知らないが、小堀遠州政一の所用とされ、氏も勿論遠州の具足として紹介しているが、遠州は三代将軍家光までの人である、具足はまずその時代迄さかのぼらない。作域が一途に凝り暗く窮屈云々はこの具足を遠州所用品だと既定観念化したうえでの措辞だが、要するにその甲冑の表現は大らかさ明るさに欠け矮小であるとし、それは遠州の茶や造庭の作法と同じく凝ってはいるが、つまらないというわけだ。
遠州の茶の根底は五倫五常、仁義礼智信の徳川朱子学であるから、濶達なところなどある筈がない。「君父に忠孝を盡し、家々の業を懈怠なく、ことさらに旧友の交をうしなふなかれ」(『書捨文』)がその茶の精神である。
この具足のもつ空廻りした装飾性に氏は反作用―嫌悪を催させるのだが、その文章的表現は或いはこの胴具足を評して当ったものとすることが出来るとしても、物件そのものが肝腎の遠州生存の時代を満足させない根拠なき伝承を基にしているものであるから、氏の論述そのものが虚仮となる。
こういう所用者を丁寧な考証をせず安易に特定してものを書くと、小説になってしまう。お風呂場談義である。ところが寺田透氏のような緻密な論理を明晰に展開することを例とする優れた学者が、活字にしてしまうと、一般大方の読者はこれを信じてしまうより他ないのである。
遠州所用というのは多分、その定紋から発しているのであろう。戦国の余燼いまだ収まらぬ寛永前後には、たとえ大名といえどもこのような過剰な装飾性をもった甲冑は用いなかった。同時期のものとして伝世する信頼できる甲冑をみるがよい。とはいってもこれが誰彼にでも判断できることではないから、ムードに惑わされる次第となるわけだ。
小堀遠州政一としてもこのような武道不案内な甲冑がおのれの所用品とされていることは笑止千万なことであろう。甲冑に七宝細工など施すなど以の外、堕落の極みなのである。このようなチャラチャラした好みは遠州の茶の景色にはない筈だ。もののふの心意気や時代風潮のわからない後代の何者かが遠州所用などという尤もらしい茶の数寄者向きの由来をつけたこと明白である。しかし氏の思索はいわゆる専門的(?)解説書を鵜呑みの範囲を出ない。
この小堀遠州の具足というものは作域の凝った贅の尽し方だけをみても実は江戸中期以降の産物とみるのが正しい。実正の遠州政一所用の甲冑の実存の態様は、もっと勁直な線をもった質実なものである筈である。すなわちいかに遠州の茶が利休の精神から変容したものであったとしても、どこかに自己対決の跡がみられるように、その着具にも無用の虚飾を嫌った一息截断の気息が窺える筈である。
つまり、氏のこの具足に懐く嫌悪感は、結果的には皮肉にも衰弱の一途を辿りつづける江戸中期の文化の卑(ひく)さ、時代の閉塞感を見事にいい当ててしまったということになる。
そしてさらにこの遠州の具足はいつの間にか遠州自作とされて「為朝の鎧」という表題の主人公の前に生贄の子羊同然に斬り捨てられる。
・・・遠州作着甲縹色縅胴具足の巧緻など、この(為朝の鎧―筆者註)脇においたらもう問題ではない・・・
遠州もおのが滅後に甲冑を自作させられ、着用させられ、剰つさえその作域を芸術面に於いて酷評され被害続きでまことに気の毒である。容赦できないであろう。
○「為朝の鎧」
右の題名はここにとりあげた氏の論述のタイトルであることははじめに触れた。
しかしここに掲げた為朝の鎧に係る文章の字数はわずかに四十三文字である。文稿の題目にする以上はそれに係る字数が多くなければならぬという約束はないし、さような野暮をいうつもりもない。しかし以下引用を含めてのべるが、その事、つまり為朝の甲冑を結論的に鮮明化するために、変り型の兜や胴そして「遠州の具足」などを貶し退ぞけるのは、書くことにおいて気随気ままは好き勝手だがいかにもお粗末である。
為朝の鎧というのは厳島神社に鎮西の八郎源為朝が奉納したという小桜威の大鎧のことであるが、これについて氏はこう書いている。
―これなどおほらかに楽しく・・・・・・「あらもの」の気持のいい高笑ひまでそこからきこえて来さうな作行きである。大粗目といふ縅し方がよく、これを目がつまつて、堅苦しかつたり小器用に感ぜられたりする重盛や義経の鎧に比べると、他でもないこの大鎧を「かろげに着なし」たその立居振舞ひがなつかしくなりさへする―
氏は為朝が奉納したという伝承を軸にしつつ、その所用者を為朝とは断定せずにはなしを進める(勿論、氏においての断定は不可能ではある)が、かろげに着なしたという『保元物語』における氏が懐かしく思う対象の主人公は為朝その人以外にはない。
ところが、厳島神社に奉納伝世されたこの鎧は為朝所用という史料的証拠がどこにもない。厳島は平清盛が安芸守になって以来、平家一門とは縁の深い神社であって、それは平家納経等の確実な伝来資料の存在でも周知されている事実である。いかなる次第でこの大鎧が源氏の為朝奉納とされたのか。このことはしかし深刻に考える程のことではない。要するに後人の作為であると考えるのが正しいであろう。歴史的ヒーロとしての人気は平家ではなく源氏の義家や為朝、そして義経が圧倒的である。平家は悲劇の敦盛位である―ということを思うと、この付会の説の誕生は江戸時代であったと考えるのはごく自然の無理のない推測であることがわかるであろう。
問題のこの大鎧、果して着用者は誰かということになると聢とはわからないというのが正答であるが、あるいは、ひょっとしてと、どうしても誰方かの愛甲になぞらえたいということなれば、平家一門の某将とみるのが無難な落ちつかせどころであろう。小桜威というのはやはり都作りの雅びを感じさせる。
右の大鎧に比べられた重盛の鎧というのは同じく厳島神社にある紺糸威大鎧であり、義経のは大山祇神社にある赤糸威胴丸鎧のことである。二領ともその着用者伝来は史実には無縁の伝承の範囲を出ないもので、特に義経云々の方は彼の生存期より後代のものである。ということになると氏がそのいうところの重盛のを堅苦しい、義経のを小器用というのはその着用者名に於ていう限り的を得ていない。着用者注文の次第や、時代の好尚によって、鎧というものはその表情を微妙に変えるのである。
いずれも「堅牢」「武骨」と「精緻」「優美」という表現をいじめつけた意趣ありの替えことばで、その意図が明白なだけ難癖づけのみみっちさを感じる。
為朝所用という小桜威大鎧の素晴らしさ強調のため、それより格を下げて比較された所用仮託の重盛及び義経の鎧であるが、二領いずれも着用者伝来に依存する必要など全く要しない名品でることは言を俟たない。
○三宝荒神の兜と附属具についての疑問
従来上杉謙信所用とされている三宝荒神の兜に初めて会ったのは、東京の博物館の武具特別展会場であったと思う。四十年近く前のことである。勿論、ガラスケース越しであったが、現物をみたとたんみるなり噴き出しそうになった。荒神さんは大きな目を剥いて口を開き、朱い舌をやや巻き気味に出している。一見、兜につける装飾とはとても思えない。手のこんだイタズラもの、しかし遊び心十分の愉快な造り物であると思った。左右の面をみても滑稽さは増せども印象は訂正されなかった。
当時これは個人コレクターの所蔵品で、その後に現物を手にとって見る機会を得たが、やはり印象は前と変らなかった。ガラス越しで見るのと、手にとるのとでは大きな違いがある。思いの変ることを期待していたが、むしろ好転しなかった。
そういえば展覧会の図録では、上杉謙信所用と断定してあった。解説担当者は刀剣の専門家で、その人の晩年には刀剣についていろいろ話をさせていただいた人だが、残念ながら甲冑は素人にちかい鑑識の方であった。一流博物館の武具担当者なら間違いなかろうという按配である。そんな訳だから担当者に大きな責任はないと催事者側は考えていたのだろうが、従来の説をいわば踏襲転記しただけの解説であったから安易なものであった。以下は私の敢えて試みるこの甲冑に対する伝来製作等の否定的見解である。こういう見方もあるというひとつの例にすぎない。その点御承知いただきたい。
この変り兜には一般に余り知られていないが実は胴や佩楯、臑当が附属しており、元は其の他の部品も揃った皆具の具足であった。物件そのものを見れば、本来は頭形兜を具した最上胴丸式の具足である。もとは素直な桃山の当世具足であったものを、大改装を施し、別物に仕立てあげたものと思える。これはあくまでひとつの考え方である。甲冑改修の場合、表面の漆仕上げにしばしば叩き塗りという技法を用いた。下地に凹凸を作りその上に漆をかける。その表面は恰も手先で叩いたようにみえるところから、叩き塗りといわれるのだが、これの荒っぽいのは俗に鬼たたきなどと称し、槍鞘などによく使われている。ダイナミックな力強さを感じさせるが、傷んだヨロイの疵隠しには簡便早急の便法として江戸中~末には多用された。破損した、叩き塗りの具足の漆を剥ぐと本来の姿の平滑な生ぶの漆下地があらわれることがある。生ぶ造りの具足にも全体は勿論裾板等に叩き塗を施したものがあるが、破損した古具足を再生再利用、あるいは改装する場合に簡易の便法として叩き塗りを採用したものがあることは前記した通りである。
くり返すがこの荒神さんの造り物を載せた具足も土台は古いのであるが、江戸に入ってからのある時期に平滑な塗りであった板物具足全体を荒っぽい叩き塗りに仕上げた。従前から考え書いてくるうちにこのことは何となく確心的なものになってきた。
紅殻塗りのその鬼叩きの肌合いはいかにも兜の立物に相応して、あら神のすさまじさを偲ばせ、改装企画者の図はみごとに当った。今更説明の要もないが三宝荒神は三宝(仏宝、法宝、僧宝)の守護神である。
しかしその着想は評価したいが、髹漆の技法は拙く野暮ったい。殊に胸や草摺りの裾まわりに配した桐や大の字は按配が悪くまるで繊細さを欠き、金具廻り、たとえばとくに胸板の弛緩した線などは謙信盛年期所用にするには程遠い頽廃を感じさせる。謙信時代の胴の胸板は左右の端が垂直に上へあがり、山形が強く、中央は谷底のようにへこまず、垂平であるべきである。これらのことは歿後間もなく伝説的武将として神に近くなった上杉謙信への信仰と憧憬がさせた業と思えるが、現代これを謙信所用などとそのまゝ信じている人に私は問いたい。不識庵上杉謙信公はこの程度の人物だったのか―と。
謙信所用と喧伝されてきたこの兜については近年発表になった嘉藤美代子氏の信頼性の高い解説(『仙台藩の具足』平成二十四年大崎八幡宮刊)がある。同書には該物件に関する仙台藩の記録が紹介されているが、史料的なもので判断する限り謙信所用を断定するものは何もない。伝世の経歴は上杉家臣由縁の事実を語っているが、それ以上に謙信の会下に参ずるには牽強に過ぎるきらいがある。嘉藤氏は女性には珍しい地元仙台伊達家にかかわる甲冑について趣味の深い好学の人であるが、氏はこの兜及び胴その他について終りにこう結んでいる。「・・・・・・いまだ謙信所用とするには謎の多い具足である」
ゆらい地生えの人間は地元歴史上の英雄や関係人物及びそれに係る器物―ヨロイや刀―について狂信的な愛情を抱くことが多く、郷土自慢的感覚で考証を無視したこじつけや附会をやるものである。博物館の学芸員や研究家の中にも勿論この種の人々が執拗に存在する。
伊達家の旧蔵で、もとは上杉家にゆかりのある家臣の家から謙信の遺品として献じられたものであれば「上杉謙信」所用といいたいところだが、嘉藤氏は誘惑を斥け冷静な視線をもってこれを解説した。この平常心は、実はこの荒神の兜及び附属の胴他の本性を見事に見透していると思える。表面仕上げが仮りに元からのものであった―とできるだけ好意的に考えても、時代のものとして何かしっくりこない。第一肝腎の荒神さんが、開高健流にいえば「タハ! オモチロイ」のである。あのような煩雑な立物は戦国の感覚ではない。この一語に尽きるのである。まして謙信は何事にても人に嗤われるような男ではなかった。
この荒神さんの立物は革と紙をもって造形され、古頭形の兜鉢に革紐で綴じつけるようになっているが前述のごとく生ぶなりのものではない。古兜鉢の頂辺には六曜透しの穴が施されているから本来は兜の上辺には何もなかった筈である。本態は頭形鉢であった上にのちにこくそや煉革を用いて変り兜を造形することは桃山~江戸前期によく行われているが、普通は取り外しが利かない、固定式である。取り外しがきく張懸は古式であると説く某専門家がいたが、これは取外し自由、革紐綴じの平安の厳星兜に附設される鍬形と同じ流れでものを考えている簡単な人である。安易な間違いであること論をまたない。張懸の工作物は固定されているのが本式である。取外し式は異例であり、戦国時代の職方の定石、常識に反している。
というところで、兜と具足を着用した人物は誰なのか、たしかに誰であってもそれでいいのだが、造型されてのちのこの具足はまちがいなく安全な場所に存在しつづけた筈である。真物の謙信の為にいっておくが、かれは戦場で常に安全な場所に退避して采を揮っていたわけではない。
これを造った後世の謙信ファンのアイデアには喝采を惜しまない。この兜はみるたびに、その時々において、私に未来への希望を抱かせてくれる。こんな奇態な兜を被って本気で戦場に出た有名武将もいたのだと仮想を信じてみる自由である。これを希望といわずして何というのか。
念のため本心を白状すればこの兜は好きである。愉快である。こんな面倒なことを書くのは嫌いではない証拠である。そんな意味合いでもモノの実否は別として、従来とは変った見方、意見もあってよろしいのではないかと思う。
固定した格式が決まっているから批評は許されないというのであれば、天動説の世界である。
○本多忠勝の具足及び戎装図について
寺田透氏によって安全な後陣にあって気楽に采を揮っていた将の一人とされたのが本多忠勝(通称平八郎が識られている)である。小論ながら「為朝の鎧」について誌すような著名な文学者がとんでもない非礼を書いたものである。
本多忠勝は若年より実戦を経験し、自ら敵を倒して首をとる事は当然ながら、生涯五十余度に及ぶ刀戟の修羅場を踏んだにもかかわらず一度の手疵をも負わなかったという。千軍万馬往来の代名詞的武将である。この点で常に重い甲冑を着用しながらたびたび負傷した井伊直政と比較される。忠勝は手軽な具足を用いながら一度も怪我をしなかったのう、というのは主君家康の感歎詞であって、その「忠勝の着用具足」が寺田氏の指差するところの肩から数珠をかけた鹿の角のヨロイである。この鹿の角が紙で作った虚仮脅しにすぎないもので、こんなものをきて足軽たちを危険にさらしセイフティーなところで数珠をかけて采を揮う。実に愚かで陰惨な日本の歴史の裏面を見せつけられたようで、胸がムカつくらしいが、近代西洋において認識された人間の正義と尊厳という、時代と隔絶した今様の既成概念でものを考えると、とんでもない的外れな評史評論になるという見本のような例である。
変り兜や数珠をかける異装の理由については既述したのでくどくはいわぬが、物ごとは時代に添って考えなければならない。
さてこの忠勝の大きな数珠からこの項の本論に入りたい。本多忠勝が具足の肩先から大きな数珠をかけ戦場に赴いたであろうことは、その戎装を描いた画像からも推測されることである。そして一般的にその画像における具足が、現存する具足と同じものだとアバウトに認識されている。しかし画像の着具と現存の具足とは瞭に別物である。
このことは細密に検分する程のこともない安易な誤認であるが、管見ではこれ迄この事実を指摘したものをみない。画像は忠勝の生存中に自ら命じて描かせ七、八回もかき直させ九度目にやっとOKを出して 完成したものという。つまり寿像である。
忠勝が生前におのれのハレの姿を遺すべく画工に奮励執筆させ、建立した領内の寺に納めたもので、このことは明瞭な史実と考えなければならない。しかしその描法に問題があるとして生前説を簡単に斥けているむきがある。俗にいう机上の専門家である。本当に詳しいのならもう少しその領域に入って、読者を納得させるだけの一言二言があればいいのだが、ヨロイの部品や周辺の物品の配置を常識の範囲で説明し、簡単に制作年代や出来のよしあしを論断する。用語のまちがいは平気である。
この画像は前訳したごとく忠勝が本多家の子々孫々、またその領民の安寧と繁栄を願ってゆかりの寺へ納めたものである。そういう所願から生まれた画の精神を理解しない一知半解がどこにでもいて、一人前の学者や指導者として罷り通るから厄介なのである。画像が忠勝死後のものと断定する、いわゆる専門家の説く根拠は顔貌の表現、足の配置等であるが、顔の表情については、鼻が巨きすぎ、目つきが鋭すぎ、歯を剥き出した口は能面のようで、足は真横に開きすぎて人工的―であるからとても生前のものとは思えないという。このような実戦の故実や事跡を知らない肖像評論家の誤りについては後述することにして、一応、甲冑を忠勝所用そのものと基本的に考え、遺存する忠勝所用とされる具足との懸隔、相違点を先に記してみる。
まず兜である。𩊱が現存するものは下段の裾端が一文字であるが、画の方は山道形の切込を設けている。籠手は筏鉄をつないだ小篠籠手であるが、画では瓢箪形のいわゆる小田籠手となっている。佩楯がこれまた筏鉄を散らした越中佩楯だが、画では板佩楯である。
細密にみれば他にも相違する点があるが、概ねこれだけの相違点をあげるだけで、甲冑そのものは別物であること、検討の余地はないだろう。これらの点は画家の恣意ではないことははっきりしている。
兜の後背部から取附けられた黒毛の飾り毛(これは一名黒熊―こぐま―ともいい、いわゆる唐の頭がこれである)が、大きく風に靡いている。右手に持つ白毛の采が殆ど垂れているのに背後には風がある。これは身体の動的雰囲気をねらった画像上の処理と考えられる。
問題は生前説を安易に否定して像の表情を非現実とするまちがった判断についてである。
猛烈な武将は出陣の支度をして、六具に身を固めた瞬間から戦場でまみえたと同様に凄まじい形相になったものである。島左近や黒田長政の逸話にそのような例があるから、カッと剥いた両眼や開いた大きな鼻や口、踏み敷いた足も嘘ではない。
関ヶ原の開戦直前の忠勝の風姿について、もと北条氏直の旧臣で忠勝のもとにいた老巧の将浜野三河が、故主の姿形(なり)とは全く違って、面(おもて)尖り、両眼の光凄まじく、まともに顔も見られない――と畏怖にみちた述懐をしているのもその前後の事情を証明している。
これらの逸話をみると、甲冑を帯したら戦場同様の表情、気構えをすることが常識となっていたことが窺える。つまり画像における非現実的表情は注文をうけた画家の恣意創作が全てではなく、その全ては逆に真実に則っていたことがわかるのである。甲冑を着用したらいわゆる「物前」(ものまえ―臨戦状態)と同じ相貌になったのである。甲冑肖像などをみる場合はこの程度の昔常識は識っていなければならない。甲冑に係るほんの些細な事柄のようにみえることも少し仔細に考えるとこれほどの誤差が潜んでいるのだ。
現存する本多忠勝の具足についてもう少し補足しておきたい。具足そのものは数領存していたであろう忠勝所用の内の一領であったとすれば否定するものではないけれど、実正は次代の忠政の現役後半の頃の着領とみる方が時代感が合う。天下著名の鹿の角は後代の再造であることは状態をみれば瞭かである。勿論獅噛(しかみ)の前立も然りである。兜鉢そのものも当時のものとすれば、修理して漆は塗り直されているとみなければならぬ。言い出せば次から次へと際限がないことである。
寺田氏の為朝の鎧の話中に出てくる甲冑や戦国武将の事柄について、知見の不足や誤解が大分にあると感じられたので、軽くふれてお終いにするつもりが長くなってしまった。平安末鎌倉にかけての大鎧を頸直で甲冑の美の極致と強調する余り、時代の降る他の優れた実用性の高い、むしろ士気に溢れた具足や、工芸的に凝った胴甲等を貶し、着用者とされる人物と行動までをも、卑怯者のごとく軽率に論評することは許されない。これは歴史に対する唯我独尊であり、立派な冒瀆行為ではないだろうか。寺田氏の一文はその典型を示すもののように私には思えた。おのれの恣意によって伝説を造り羽翅を生やさせてはいけない。
氏は「為朝の鎧」において、着用者を断定はしないものの、伝来由緒に依って当初からその鎧を源為朝所用と確定的に認識し、伝説ではない事実を前提とした上で、そこへ新興武士のおおどかな荒々しさ、美しさを一方的に結びつけたように思える。遠州の胴具足や鹿角や三宝荒神の兜は、見事に舞台廻しの脇役に利用されたわけである。話の展開は既定のもので、はじめから結論ありきの論述であったとみていい。
仮定や仮想を勝手に進化させると妄想になる。この独りよがりは、ある種文学者の特権かも知れないが、歴史の事物の判断は事情をよく調査した上で、しっかり検分し覚知する必要があろう。好悪の感情による容易な裁定は禁物である。もしも奈良飛鳥時代の唐風甲冑が伝世して今にあれば、氏はどういうのであろうか。場合によって「為朝の鎧」ごときは田夫野人の粗野そのものを感じさせると諷するのであろうか。返す刀でこう断ずるか。仏像彫刻だけではない。飛鳥の優美は武甲に於ても美神の存在をまざまざと感知させる、と。
六、結びにかえて
一般に古物の社会はいずれも大同小異で、これを古武具古甲冑の限定された物品の世界の事柄にそのまま移しても根本的に相違のないものゆえ、鎧兜のもろもろに係ることの実否についてもあえて断り書きの要はない。つまりこのセクションについて、たとえば先の「為朝の鎧」のごとく作品と着用者の問題、あるいは伝承伝来、時代の適否など真偽の問題に踏み込んで明確に語ろうとすることは、結局、古美術の世界全般にも根強く存在するであろうある種の黙認された言いまわしや解釈に対して詮索の手を入れることになる。必要悪などと取立てていう程の事もない、それは慣例的に多分に許されてきた。日本古文化の裏面に育まれてきた是非をはっきり問わない封建主義といってもよい。この世界、贋物を明確にニセモノとはいわない粋のつもりの風流がある。そういうモノに対しては「イケナイ」「よく出来ている」「一寸弱いネ」「お愛想だよ」「二番手」。つまりはめくじら立てない。モノのわからぬ人は揚げ畳に安坐させ、余計な差出口をせずに、機嫌よくさせておけばいいのダ。と、いうことは、これまで私のここで書いてきたことは野暮な無駄話ということになろうか。なるほど一面的にはその通りかも知れぬ。旧態を墨守し、尊重する人々、左様な気象のむきにはいらざることである。でも、はじめに書いたようにこのような甲冑武具における既成の不慥かな事柄に対し、出来るだけ検分し、覚知につとめその再認を促す契機を作ることは必要であろう。それは為朝の鎧の項をみてもらったらよくわかる。取り上げるに典型的な論述なのであえて筆数を費したが、ともかく一石を投じることが必要であろう。(了)
井伊達夫
平成27年4月27日
《本稿は、『戦国甲冑うらばなし』(平成28年1月刊行)の巻頭随録として書き下ろしたものに、一部修正を加えたものです。》