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『川手主水覚書』

井伊達夫

主水刀剣差分_edited.jpg
​序

(一)私と川手主水

 

 

「川手主水」というもののふの名を識ったのは二十台前半の頃であったと思う。ざっと六十年前である。はじめはなにか格好のいい名前だな、と思った程度で、余分の知識といえば、井伊家の彦根統治初期のサムライ——といったほどのものであった。

その主水が、実は大坂の陣で無念の死をとげたことを知ったのは大分あとで、彦根の郊外にある主水の塚を偶然に発見した頃と相前後している。その主水塚との遭遇は、あとから考えると単なる偶然ではなく、今となっては運命的な出会いであったような気がする。あの日は寒かった。塚を取り巻いている叢林のなかに咲いていた藪椿の紅の色が、今も鮮やかに蘇ってくる。

 

その後の長い私の生活のうちに、主水は忘れられることなく蹤いて来た。主水について何か史的考究をしてきたわけではない。何も大した意識もしていないのにフッと私の意識の中に主水はその居を占めていたのである。潜在意識にあったのはおそらく「主水の戦死」であったろう。それをいつか詳かにしたいという願いがどこかにあったから、主水はあるいはその希望をかなえるように私の背後に憑いていたのかもしれない。

 それを私があきらかにすることは、いってみれば、主水の本懐ではないだろうか。同じことは他でも言ったような気がする。よけいな迷信ごとはいわない。しかし、そんなことを考えたり、考えなかったりの匆忙の日々のうちに歳月は過ぎた。

某日「疾く、急げ!」というような主水の叱声を聞いた。たしかにその声は私の背中から聞こえた。私はこれまで、主水について多少書いたり、発表してきた(前後截斷録「川手主水」項)。その他にも近年はHP上にいろいろ書いてきた。そのおおむねは大坂の陣に係るものであるが、実は重要な史書による主水の行動はまだ書いていない。

先日私蔵の史料のなかに、ほんとに貴重な主水の生きた真の姿が伺われるものを複数発見した。それらの史料によって生きた主水の後ろ姿を追ってみたい。

現在から過去へ遡上って、どんどん遠去かってゆく人物の後姿に追いつくことはむずかしいが、主水に係ってのことは、その解明のための自分の一挙一動そのものが大袈裟に言えば生きがいに思われる。

1,河手主水良行について

(二)主水の実名

 川手主水の実名は「良行」とされている。その拠り所はおそらく『井伊年譜』(功刀君章編)であり、更にそのもとは『河手系譜』であろう(あるいは全くその逆かもしれない)。『河手系譜』は分家川手藤兵衛家の『書継ぎ系譜』であり、この中に本家たる初期主水家の記録がある。数少ない彦根川手氏の資料としては貴重であるが、個人の私的編纂に係るその家の系譜というものは、史実的に重要な部分もある反面、あきらかな誤謬や誇張があって、存分に信用することは危険である。

とくに一旦家名が亡滅した士族の時代記録は記述に対する正確な検討と批判を要する。ところがそれは実は最もむつかしいのである。

 ところで、前記したごとく「主水の生きた姿」を知る史料とは何か。それは『直孝様御直書并御請留』と『大坂御陣・・・面々指上候書付之写』の二書である。いずれも単一の記録本で一般の流布史料ではない。その中から川手主水のことがらを明確に認識したのはごく最近のことである。

 

 主水の実名が判明したのはその前書の方で、その文書については本稿(三)で詳述するが、川手主水の実名は「良行」ではない。従来の彦根史書関係では「川手主水良行」とされているがこれは、その通り名を記している。『井伊年譜』自身が「判然しない」と断っている。これが実は正しかった。主水の実名は景倫(おそらくかげともといっていたであろう)である。川手主水景倫が、かれの正しい形姿をあらわす名前であったのである。そういえば『河手系譜』上の祖父は「景隆」といっている。何となく然るべき実名と首肯されるが、そうすると先代主水である父の実名「良則」も怪しい。本当は通字の「景」を用いた「景○」であったと考えられるが今は不明である。ともかく本稿の主人公川手主水の実名を私が瞭らかにできたことが、何よりのよろこびである。

(三)主水実名判明の典拠

 

 

 私は大分むかしになるが『井伊軍志』というものを著した。これは井伊直政の軍政面に力点をあてた井伊直政の一代記であるが、この中に、直政没後に井伊家中を真っ二つに割った大騒動について、「佐和山騒動」として一項を設け詳述した。この騒擾事件を一言でいってしまえば、直政のあとを承けた二代目井伊直継(のち直勝)の統治能力の不足から、年寄中の権力者鈴木石見が井伊家中をわが物にしたかのごとき権力を振るいはじめた。単純な正義論でいえば、いわゆる悪党である。

 これに激怒した反鈴木派(これは時代劇風にいうとお為派、正義派に分類される)が立ち上がり、鈴木の不正を弾劾、その排除のため幕府に訴え出た。この時代の用語で「目安を差上げ奉る」というが、このときの訴状の筆頭人が他ならぬ川手主水であり、実名はその訴状連判の記録によって判明した。時期は慶長十年六月である。

 結局この件は家康の直裁により鈴木石見追放処分で落着ということになったが、この時の幕府との往復書簡中の連判署名から主水の実名が判明したのである。因みに主水とともに連判した井伊家重臣達の名前は、下記の人々であった。

椋原対馬、中野介大夫、西郷勘兵衛、松下源太郎

 

 ここで私が言いたかったことは、主水景倫は若くして彦根藩政の筆頭者に立っていたということである。主水は慶長六年養父である先代主水(実名良則と『井伊年譜』や『河手系譜』ではいっているが、これは現時点において真実味がない)の死去において家督をついでいるが、この時年歯わずかに十四歳。鋭敏であったことが知れる。そして鈴木石見排斥一件で主班となった時は十八歳。既にこの時、主水は井伊家中第一の地位を誇っていた。

(川手は直系が断絶するが、その他の子孫は幕末維新まで連綿する。)

2,忘れられていた河手主水父子の墓
3,歴史常識に反する交誼譚

(四)大坂両陣前後の井伊家中の状況

 

 

 東の徳川、右の豊臣——。関ヶ原の大戦から距つことおよそ十五年を経て、天下の風雲は再び急をつげはじめた。都近く、佐和山(彦根)に居を占めた井伊家にも逸早く大坂豊臣氏の状況は報知されていた。戦国以来千軍を往来した古武士たちはその多くが世を去り、戦いを知らない若きもののふたちは徒らに乱世に憧れ腕を撫する日々であったが、漸くその実際を知らしめる戦雲は徐々に殺気を孕んで彼らの目睫に迫り来たりつつあった。

 ときに井伊家の統領は井伊直継である。天下突懸(つっかかり)第一の将、徳川四天王の筆頭とうたわれた井伊直政の嫡男で、彦根第二代藩主である。ところがこの直継は性格的に父直政の絵に描いたような勇猛果敢なところを承けついでいなかった。家士の誰もが、怒ったところをみたことがないという。性格温順であった。いわゆる「君子」といえば褒め言葉になるが、それは後代江戸泰平の美言で、この乱世には適用しなかった。治国の主にはむいていなかった。つまり井伊家の統領であるはずだが、実正はかの猛将直政の嫡男というだけで、単なる藩国の上段にすえられた飾りものに近い存在であった。ここで政治の実権を握っていたのは鈴木石見、同主馬、川手主水(景倫)、中野助大夫、椋原主馬、西郷勘兵衛らであるが、鈴木石見は慶長10年、家中で騒動事件を起こした主犯として井伊家を追放され、石見を除く上記の面々が藩政を主導したが川手主水はその筆頭者の地位にあった。彼等の上に、家康の命によって井伊家に附属されていた木俣土佐(守勝)が目付として家中に睨みを利かせていたが、この土佐も慶長15年に死去し、今は養子の木俣守安が右京と称して養父の欠を補っている。

 この状況で特に説明を要するのは、主水と木俣右京(守安)の立場、状況である。守安は小田原の北条氏照の落胤で、土佐守勝の養嗣。一方の主水は井伊直政の姉婿先代主水の養子として川手家に入った。二人とも養子である。年齢は木俣の方が三歳年上、互いに若さを誇って競争意識に燃えていた。

 

 そして大坂冬の陣勃発である。

 井伊勢は幸い真田丸攻めを担当することになった。

 相備えは越前松平忠直と前田利常の部隊である。

 共に大藩大軍の両勢が同じ攻め手となって、井伊隊も奮発して攻め口に寄せつけた。これを当時の用語で仕寄(しより)をつけるという。

(五)主水と右京 直孝を廻る意趣のはじまり

 

 

 冬の陣は大変寒かった。手に持った槍柄を誰かがポンと叩くと、簡単に取り落としたという記録がある。手が寒さでかじかんで、容易に握り返すことができなかったのである。

 主水と右京のその後の人生を決定づける日は、慶長19年12月4日朝に訪れた。その日は前日より暖かであったらしい。霧が出た。それも大変深い霧であった。一間先がもうみえない。しかし井伊軍から窺うと、越前松平・加賀前田両勢ともその深い霧の中を真田丸の堀際にむかってじわじわと寄せている気配が頻りである。井伊勢も遅れるわけにはゆかぬ。

 先手木俣守安は隊下を卆いて霧の中を前へ出た。同勢鈴木主馬隊も前へ出る。もちろん気配を察した越前勢、加賀の両勢も前へ出る。

 真田丸へ向かう寄手全軍が、前へ出る。遅れてはならぬのだ。頻りに前へ出る。

 井伊軍のこの時の構成、いわゆる陣備え、構えは上記の通り先手二備えで、木俣、鈴木。そしてこれから叙述の主人公となる川手主水隊は奥山六左衛門組と共に、後備の両翼として詰めていた。川手、奥山両隊も先手に間をあけじと前へ詰めてくる。

 その背後には、井伊直孝卆いる旗本本隊が控えているが、その旗本自体も少しづつ真田丸堀際に押し出してくるようである。事実はそうではなかったが先手及び二の手の木俣や川手勢は、味方の旗本本隊迄もが犇犇(ひしひし)と自分の背後から追い迫ってくるような威迫感を感じた。これは井伊先隊の軍兵たちが一様に感じた強迫的ストレスであった。ここで遅れをとっては、再び「男」として振舞うことはできないという恐怖である。

 深い霧と、かすかに感じられる朱の大旗の数多の絹擦れの音が、往け!往け!と追い立ててきたのである。但ここが重要である。寄手全軍にいまだ攻撃命令は発令されていない。

 ここで右京は、思い切った行動に出た。

 抜け駆け禁止の法度を破って、右京守安は唯一人真田丸の空濠のなかへ飛び込んだのである。もちろん守安直隷の家来も次々と濠へとびこむ。空濠の中には屈強な防御柵が幾重にも設けられているから柵に阻まれて前へ進めない。

 真田丸の高土居にとりつくにはこの柵を破らなければならぬ。真田丸の櫓上からは鉄砲の斉射が続く。文字通り弾丸は雨霰より激しい。どうしたところで真田丸郭内に侵入することは不可能である。そんなことは右京守安には百も承知だ。その「不可」をただ眺めて「切歯扼腕」するだけなら誰でもやれる。要は「必死」の「虎穴」へ「虎児」を得るの見返りなく、飛び込んで潔く死ぬ勇気を見せるのが男の仕事だ——と守安は思い切っていた。

 これは重大な行動である。軍令違反の死は覚悟しなければならぬ。しかし守安は、この先駆行動が寄手全軍の中にあって、とりわけ井伊勢が絶対に履行しなければならぬ義務的行動だと認識していた。そしてそのことの重要性を事前に直孝に説明して、暗黙裡の了解を得ていた。責任はこの右京一人が腹を切ります、あく迄直孝様は御存知なきことと致しまする。——このことへの了解承知はその前後両者密談の上で極めて簡単に纏まっていたのだ。

 

 とも角木俣右京守安は真田丸空濠の底へととびこんだ。守安の家来達はもちろん、木俣組の諸士は遅れじと濠なかへ飛び込んでゆく。濠の上からは守安の鳥毛の棒の馬印が赤い旗幟の群中にあって、ひときわ黒々と目立ったという。

 

 さきに言ったように、たしかに真田丸を井伊家中、木俣勢は攻撃している。しかし、成果は期待できない。敵将真田信繁(幸村)は余裕綽々たるものである。この頃になると加賀や越前勢も攻撃に参加し始めているが、信繁は越前勢の中に一際目立つ変り兜をつけて健気に働く若侍に対し、「あの者は討ってはならぬ」と「矢止め」つまり攻撃目標から外す指示などもしている。この若士は越前松平忠直の弟で、のち松江藩祖となる松平直政であって、その時の所用兜は純白に輝く雉子の兜であった。信繁はその見事さに感じて櫓上から軍扇を投げ与えたとも伝えられる。

4,刀剣贈与譚の不審

(六)真田丸攻撃

 

 

 さて、木俣右京守安である。

 真田丸からの絶え間ない木俣らへの銃撃は収まることがない。

 その中で右京守安は「あの土居にとりつく!」と叫んで空濠の柵を乗りこえようとするが、もとより信繁発案でしつらえた防柵だから容易に破れない。従士の野田六兵衛が大脇差を揮って柵を結んでいる縄をたち切り、足で柵の一部を蹴り破って右京を中へ招き入れた。これをこえても、更に次の防柵がある。上からの銃撃は一段と厳しくなってくる。ついに太股に弾丸が当って右京は転倒した。野田や関口といった木俣譜代の家来が右京を助けおこす。

 

 この時旗本の本隊から派遣された三浦十左衛門が真田丸からの引き上げを伝令してきたが、誰も諾こうとしない。右京守安はその頃真田丸の土居下にとりついていた。とりついたけれど、そこから一歩も動くことができない。矢玉は真上から休むことなくふってくる。あとでわかったことだが、このとき木俣右京守安の具足、指物には十一箇所もの弾痕があった。井伊勢の主将直孝からは、濠から引きあげよとの命令が出ているが、伝令が濠際へ来て大声で叫んでも濠下へ飛び込んだ井伊の兵たちは誰も諾こうとはせぬ。銃声や叫喚で声が十分に届かなかったこともあるが、もとより引き上げよといわれて我先きにあがってくるものはいない。この機会を幸いと我先にこの修羅場から引き上げたら、アレあの臆病者が・・・と後指をさされること必定である。そうなると、無事戦後を迎えても、奴は命惜しさに鼠より疾う逃げおったワ・・・とい嗤い者になって男が立たぬことになる。「赤鬼軍団井伊」の内にあって、ひとたび臆病者の烙印を捺されたら、もうサムライの世界では通用しなくなるのだ。こういう当時の侍社会の戦場不文律を長々と書いているのは、後の本論ともいうべき川手主水の行動を理解する上で重要だからである。

 つまるところ、木俣右京守安が抜け駆けをやったことは、重大な軍律違反であった。大阪方真田軍は少しも損害を蒙ってはいない。仮りに真田丸の土居にとりついたところで上から突き落とされるだけである。

一人や二人、真田丸にのりこんだとしても敵の格好の餌食である。なのになぜ右京はこんな暴走に似た自殺行為をしたのか。右京は大罪を犯した。切腹は遁れられない。覚悟の上である。その覚悟はどこからきたのか。軍令を守って凝乎(じっ)としていればいいのに突出、損害を出した。事実戦死者が出ているのである。責任は切腹という行為で右京自身が責めをとることだ。ここまでは前夜直孝と諜し合せずみである。結果この軍令違反は右京にとって最大の売名行為となった。もう右京は死ぬばかりである。木俣右京の男振りは天下に示したのだから。

 ところが事態は意外な方に展開することになる。総大将の徳川家康はこの木俣右京の抜け駆け、真田丸空濠飛込みの一件を評価し、褒めあげたのだ。

 誰だって命は惜しい。長生きしたいのが本能である。その大切な命を捨てて寄手としての決死の武功をあげたのはまこと勇士の名に値する。木俣右京なる奴はまこと勇士である——というわけである。家康のこの言動には井伊直孝はもちろん、この行為に激怒していた徳川家忠や寄手の諸将一同を十二分に驚かせるに足るものであった。「——え!抜け駆けありかよ」「なら吾等もしたによ」

 もとより、そのような声を出す者はイザという場合何もできないのだが、この一挙で「井伊家侍大将木俣右京守安」の名は天下に轟くことになった。

 このあとともかく右京達は飛び込んだ真田丸空濠からの生還を果たした。

もはや右京は天下第一のおとことなった。右京にしてみれば弾丸創(たまきず)でたとえ彼の人生が両足不具になったところで、それがどうした——というぐらいの気愾である。

空濠から上がったとき、同じ先手鈴木主馬家の侍たちが右京の姿をみて声をかけ、「我等もいかい苦労を仕った・・・」「まこときびしき場でござったワ」

そして更にこういった。

​(続) 令和四年八月一日

5,河瀬神社へ
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